2016年09月01日

エレミヤ書81 この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ――神の怒り、{エレミヤ書25章13節〜18節)



 エレミヤ書25章で、預言をしているエレミヤは、もう神に召されたばかりの若者ではありません。二十三年間も主のことばを伝え続けてきたのです。ヨシヤ王の治世は、宗教改革が行なわれたときでしたから、あまり神の怒りを招くような問題はなかったはず、と思いたいのです。けれども、ヒゼキヤの時代に北イスラエルが滅亡して、危機はユダ王国を直撃するようになっていました。
 ヒゼキヤの子マナセ自身がイスラエルの神、主を裏切り、バアル信仰をもちこみました。しかも、彼の治世は五十五年も続いたのです。(U列王記21章1節11節)
 ヨシヤが即位したとき、神殿(主の宮)は荒れ果てていて大規模な修復工事が必要でした。しかし、この工事中に「律法の書」が発見されたのです。ヨシヤは偶像の置き場所になっていた神殿から、バアルやアシェラ、それらの祭祀用具をことごとく運び出させ、ギデロンの野で、それを焼き、その灰をベテルに持って行ったのです。(同4節5節)

 U列王記23章20節までに書かれているとおり、ヨシヤの宗教改革は徹底したものでした。
 彼はユダの王たちのどの時代にも行なわれなかった「過ぎ越しのいけにえ」をささげました。聖書は「ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、ひとりも起らなかった。」(25節)と記録しています。
 「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行いのために、主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった」(26節)のです。

 国際情勢はどんどん緊迫して来て、人々が神に聞くより、情勢を日和見する度合いはひどくなり、ヨシヤもエジプトとの戦いに出て行って戦死してしまいます。若いエレミヤは、これらの歳月も主のことばを取り次いでおり、聞く者がいないので、涙の日々を送るのです。

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 わたしは、この国について語ったすべてのことば、すなわち、エレミヤが万国について預言し、この書にしるされている事をみな、この地にもたらす。(エレミヤ書25章13節)
 多くの国々と大王たちが彼らを奴隷に使い、わたしも彼らに、そのしわざに応じ、その手のわざに応じて報いよう。」(14節)
 まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。(15節)
 彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである。」(16節)

 マナセの罪のためにユダにもたらされる報いは悲惨なものでした。バビロンとバビロンに同盟する国に、ユダは滅亡させられるのです。捕囚と言うかつて経験したことのない民族崩壊が訪れます。

 つまり、神は異教徒(外国)を使って、ご自分の民ユダを罰しておられるのです。
 こんなことは、神=氏神、信者にご利益をもたらしてくれる神と思っている日本人には、とうてい納得することはできません。
 しかし、悪を懲らしめるときは徹底的に厳しい処置を取られるのも、創造主ヤハウエです。また、ユダを罰するために、一時的に用いられた異教徒も、じつは創造主のご支配の下にあるのです。これが、聖書の神と偶像の神の、格の違いです。

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 日本には、0.4パーセントしかキリスト者がいないと言われます。たとえそれが事実だったとしても、それは、人間の側から見る数字です。万物も人も,創造主によって造られたことには変わりがなく、創造主の作品であり、愛の対象であることには変わりがありません。でなければ、どうして、「神は良い人にも悪い人にも、雨を降らせ、良い人にも悪い人にも日を照らす」[マタイの福音書5章46節]などといえるでしょう。
 イエス様は、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」と言われました。(マルコの福音書16章15節)これは、全世界の人が、救いの対象だということでしょう。たとえ、今偶像を拝んでいても、神など信じていないと豪語する人であっても、救いの対象なのです。
 もちろん、言葉で拒否することはできます。しかし拒否して逃げ回ることは、ただ、「死」を意味しているだけです。

 神は、そのようなことを望んでおられないのでしょう。ですから、次のように全世界を罰することで、その主権と全能性を示しておられるのだと思います。


 そこで、私は主の御手からその杯を取り、主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。(17節)
 エルサレムとユダの町々とその王たち、つかさたちに。――彼らを今日のように廃墟とし、恐怖とし、あざけりとし、のろいとするためであった――(18節)





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2016年09月02日

エレミヤ書82 この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ――神の怒り、2{エレミヤ書25章15節〜35節)



 まことにイスラエルの神、主は、私にこう仰せられた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。(エレミヤ書25章15節)
 彼らは飲んで、ふらつき、狂ったようになる。わたしが彼らの間に送る剣のためである。」(16節)
 そこで、私は主の御手からその杯を取り、主が私を遣わされたすべての国々に飲ませた。(17節)

 聖書の引用箇所を少し戻しました。「神の怒りの杯(さかずき)」という激烈な表現を噛みしめたいと思ったからです。さらに前の箇所で、神は、罪を犯すユダを、バビロンを使って罰せられると仰せです。そこでユダ王国は、領土を荒され、人はバビロン捕囚として連れ去られ、国が崩壊してしまうことになるのです。いわば、神はバビロンをユダへの剣として用いておられるのです。
 ですが、結局、バビロンもバビロンの同盟国も、バビロンの敵対国エジプトも、地中海の国々も、神によって罰せられるのです。
 その罰を、彼らに預言するよう、エレミヤは神から命じられています。

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 怒りの杯とは、ぶどう酒のことではありません。悪い酒が苦痛と狂気と混乱をもたらすように、これらの国々が混乱の中で苦しむのです。

 エルサレムとユダの町々とその王たち、つかさたちに。――彼らを今日のように廃墟とし、恐怖とし、あざけりとし、のろいとするためであった――(18節)
 エジプトの王パロと、その家来たち、つかさたち、すべての民に、(19節)
 すべての混血の民、ウツの地のすべての王たち、ペリシテ人の地のすべての王たち――アシュケロン、ガザ、エクロン、アシュドデの残りの者――に、(20節)

 まず南の国から名前が挙がっています。地中海沿いの町々を北上し、やがて、死海の東の国、エドム、モアブ、アモンが名指しされています。

 エドム、モアブ、アモン人に、(21節)
 ツロのすべての王たち、シドンのすべての王たち、海のかなたにある島の王たちに、(22節)

 ツロは、ダンより北の国です。ツロとシドンは地中海に面した港町でした。その海のかなたの国とは、地中海沿岸の国々、のちに来るギリシャでしょうか。後のローマでしょうか。

 デダン、テマ、ブズ、こめかみを刈り上げているすべての者に、(23節)
 アラビヤのすべての王たち、荒野に住む混血の民のすべての王たちに、(24節)
 ジムリのすべての王たち、エラムのすべての王たち、メディヤのすべての王たちに、(25節)

 地名は、しだいに北上し最後にバビロンが上げられています。

 北国のすべての王たち、近い者も遠い者もひとりひとりに、地上のすべての王国に飲ませ、彼らのあとでバビロンの王が飲む。(26節)
 「あなたは彼らに言え。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。飲んで酔い、へどを吐いて倒れよ。起き上がるな。わたしがあなたがたの間に剣を送るからだ。』(27節)

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 もし、彼らが、あなたの手からその杯を取って飲もうとしなければ、彼らに言え。『万軍の主はこう仰せられる。あなたがたは必ず飲まなければならない。(28節)
 見よ。わたしの名がつけられているこの町にも、わたしはわざわいを与え始めているからだ。あなたがたが、どんなに罰を免れようとしても、免れることはできない。わたしが、この地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ。――万軍の主の御告げ――』(29節)

 エレミヤの預言はどこの国も受け入れないと、神は、ご存知なのです。それゆえ、「万軍の主」は念押ししています。

 あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。『主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。(30節)
 その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。――主の御告げ――(31節)

 言葉を変え、表現を変えて、主の宣告は続きます。

 万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。(32節)
 その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』」(33節)

 戦乱の果てに廃墟となり、死体が累々と地に放置されている光景が思い浮かびます。「主の憤りのぶどう酒の杯」がもたらす結果です。

  牧者たちよ。泣きわめけ。
  群れのあるじたちよ。灰の中にころげ回れ。
  あなたがたがほふられ、
  あなたがたが散らされる日が来たからだ。
  あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。(34節)
  逃げ場は牧者たちから、
  のがれ場は群れのあるじたちから消えうせる。(35節)

 ここでの「牧者」は、群れのあるじ、すなわち、王や長老など国々の指導者です。神の怒りの剣は、このように上の者にたいしてより厳しく振るわれるのです。
 だれが指揮をしたのか、だれが責任を取るべきか、主の目からは明快なことだからでしょう。

  聞け。牧者たちの叫び、
  群れのあるじたちの泣き声を。
  主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。(36節)
  平和な牧場も、
  主の燃える怒りによって荒れすたれる。(37節)
  主は、若獅子のように、仮庵を捨てた。
  主の燃える剣、主の燃える怒りによって、
  彼らの国が荒れ果てるからだ。(38節)









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2016年09月03日

エレミヤ書83 わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。――神の怒り、3{エレミヤ書26章1節〜9節)



 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。(エレミヤ書26章1節)
 「主はこう仰せられる。主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。一言も省くな。(2節)
 彼らがそれを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは、彼らの悪い行ないのために彼らに下そうと考えていたわざわいを思い直そう。(3節)

 神殿は、神聖政治国家ユダの中心です。神が人間世界に歩み寄って来られる聖所であり、その意味は、神とのきずなの結び目だったということです。
 主は、神殿にはお住まいにならないとソロモンも認めていますが(T列王記8章27節)、しかし、神殿の至聖所には、主が臨んで下さるのです。なぜなら、そこは祭祀儀礼の権威の中心だからです。神に仕える祭司とレビ族はイスラエルの中に、広く散って住んでいましたが、交代で神殿で仕えたのです。ランダムな交代ではなく、順番は決められた通りに回って来て、神殿に仕える祭司は律法に定められた祭司としての務めを果たすため、身をきよめて入ったのです。(レビ記21章22章)
 また、イスラエル中の人々がここに上って来て、ささげ物をし、祭司に祈ってもらったのです。実際の政治は王や各部族の長老が行なったとしても、その王でさえ、神から油を注がれるのですから、神殿の権威の大きさは言うまでもありません。

 エレミヤは、神の言葉を神殿の庭で語るようにと、命じられるのです。主の宮に来るすべての町のものに、主が語れと仰せになった預言を語るためです。

 だから彼らに言え。『主はこう仰せられる。もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、あなたがたの前に置いたわたしの律法に歩まず、(4節)
 わたしがあなたがたに早くからたびたび送っているわたしのしもべである預言者たちのことばに聞き従わないなら、――あなたがたは聞かなかった――(5節)
 わたしはこの宮をシロのようにし、この町を地の万国ののろいとする。』」(6節)

 神から一方的に召命を受ける預言者は、聖書の中では特別な存在です。
 何と言っても、聖書は、神が主人公の書物です。創世記の初めから、記されているのは、神の行なわれたことです。Coffee Breakの最初の頃に書きましたが、ですから、聖書を読むにあたって「神が存在する」、それも「生きて働いておられる神」を認めないと、聖書は一行も理解できません。理性や論理でわかるように見えても、実際には、その中に分け入ることができないのです。生きて働かれる神、この世界のすべての所有者で、この世界そのものとして自存している存在で、しかも、声や言葉、熱、力をもって歴史を作っておられることは、聖書を読んで実際に納得していくしかないのです。

 神の選びの民イスラエル(イスラエル王国とユダ王国の住民)は、彼らの神を畏れ敬い、誇りと思っていたに違いないのです。イスラエル民族は神によって造られ、エジプトに植えられ、エジプトから連れ出していただき、シナイ山で契約とともに神聖政治国家イスラエルを与えていただいたのです。まだ、領土も、国家としての制度もほとんど整っていない国の民に、神は約束の地を目指すよう励まして、彼らをカナンに入れたのです。
 その神の力とみわざを、多くのイスラエル人は承知していたと思うのです。それでも、実際に彼らが領土をもち、王をもち、周辺国と交易したり戦ったりするとき、神は、彼らの中心から、だんだん遠くへ押しこめられたのでしょうか。

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 祭司と預言者とすべての民は、エレミヤがこのことばを主の宮で語っているのを聞いた。(7節)

 シロの宮は士師記の時代に、エフライムのシロに置かれた会見の天幕(幕屋)のことです。カナン進攻が一段落したとき、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた(ヨシュア記18章1節)のです。エフライムは、イスラエルの中心地であり、が豊かな地であり、当時まだ、エルサレムはなかったので、シロは幕屋のある場所としてハンナの時代(Tサムエル記1章3節〜)まで、明記されています。
ところが、祭司エリの二人の息子がペリシテ人との戦いで神の箱を持ち出し、揚句に神の箱を奪われて大敗北を喫してしまいます。この時、シロの神殿も破壊されたと推測されています。(新聖書辞典・いのちのことば社P638)

 エレミヤの預言はこの歴史に基づいているのです。これはもちろん、祭司や預言者にとって恐ろしい預言でした。聞きたくないことを語るエレミヤを彼らは捕えてしまうのです。

 主がすべての民に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕えて言った。「あなたは必ず死ななければならない。(8節)
 なぜ、主の御名により、この宮がシロのようになり、この町もだれも住む者のいない廃墟となると言って預言したのか。」こうしてすべての民がエレミヤを攻撃しに、主の宮に集まった。(9節)








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2016年09月04日

エレミヤ書84 ほんものの預言者・エレミヤ――このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。{エレミヤ書26章10節〜15節)



 エレミヤの預言は、たしかに厳しいものでした。神殿が、かつての「シロの宮」のように跡形もなく失せると言ったのです。これは、神聖政治国家にとって、国が崩壊すると宣告されたも同然でした。神殿が亡くなることは、神聖政治国家の「政体」そのものが失われることです。
 ユダ王国は、このとき、たしかに王制ですが、シナイ契約の時に定められた祭祀儀礼と祭司制度、幕屋制度は生きており、その時、取り分けられたレビ族の働きがなくなったわけではなかったと思われます。多くの民を年に一度は、宮に上らせ、ささげ物をささげたいと思わせる神殿は、イスラエル人を一つに結びつける神・主とのきずなの中心であり、支えであったことでしょう。
 民の信仰は、祭司や預言者など、神の名のもとに活動している人たちの存在を物心で支え続けていたと思われます。
 その神殿が、失われるなどというのは、祭司階級にとっては、みずからの価値と生きるすべを、すべて否定されたのと同じです。じつに、恐ろしい預言でした。
 
 彼らがエレミヤを捕えたのは、理由のないことではなかったのです。しかも、死刑の宣告までしたのです。
 死刑は一大事でしたから、民がみんな集まってきたわけです。

 じっさいに行政を行なっているユダの首長たちも集まってきましたが、これは、さわぎを見るためではなく、死刑に当たるかどうか、評定(検討)するためです。
 主の宮の門には、そのような評定の場所がありました。

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 ユダの首長たちはこれらのことを聞いて、王宮から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入口にすわった。(エレミヤ書83章10節)
 祭司や預言者たちは、首長たちやすべての民に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの町に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」(11節)

 この場面は面白いですね。祭司や預言者(神殿に仕える者)は、告発するものです。いわば、検察側です。
 エレミヤは被告です。被告として、もう一度、彼の立場を説明しています。
 
 エレミヤは、すべての首長とすべての民に告げてこう言った。「主が、あなたがたの聞いたすべてのことばを、この宮とこの町に対して預言するよう、私を遣わされたのです。(12節)

 エレミヤは、「主が、主のことばを預言するようにと自分を遣わされた」と、自分の行動を説明しています。

 さあ、今、あなたがたの行ないとわざを改め、あなたがたの神、主の御声に聞き従いなさい。そうすれば、主も、あなたがたに語ったわざわいを思い直されるでしょう。(13節)

 神の宣告をしっかり聞きなさい。神様は、やみくもに、エルサレムの神殿をシロの宮のように滅ぼすと仰せなのではない。あなたがたが、主の御声に聞き従いさえすれば、「わざわいを思い直される」と、念押しをしています。
 つぎの言葉は、エレミヤが神の言葉に命を懸けている証拠です。
 
 このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。私をあなたがたがよいと思うよう、正しいと思うようにしなさい。(14節)

 この箇所は、召命とは何か、預言するとはどういうことかを、あらためて考えさせてくれます。じっさい、神のことばを取り次ぐというのは、「命がけ」のできごとなのでしょう。

 ただ、もしあなたがたが私を殺すなら、あなたがた自身が罪のない者の血の報いを、自分たちと、この町と、その住民とに及ぼすのだということを、はっきり知っていてください。なぜなら、ほんとうに主が、私をあなたがたのもとに送り、あなたがたの耳にこれらすべてのことばを語らせたのですから。」(15節)

 命がけで語っているものだけが、このように毅然とした態度を取り続けることができるのでしょう。

 すばらしく緊張感のある場面です。かつて、モーセがパロの前に立ってイスラエル人の解放を求めた場面にも劣らないですね。ほんとうの神がかりとは、このような神に支えられた態度を言うのかもしれません。







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2016年09月05日

エレミヤ書85 ほんものの預言者・いのちがけの預言{エレミヤ書26章16節〜24節)



 神殿は、祭司や預言者のアイデンティティの拠って立つところでしたから、神殿が消滅すると聞いた祭司や預言者たちは、「エレミヤは死に値する罪を犯している」と反応してしまいます。
 そこで、公開裁判になりました。すると、じっさいの政治に携わっている「首長たち」や、日々終末的混乱の世の中を生きている民は、正反対の反応を示すのです。

 すると、首長たちとすべての民は、祭司や預言者たちに言った。「この人は死刑に当たらない。私たちの神、主の名によって、彼は私たちに語ったのだから。」(エレミヤ書26章16節)
 それで、その地の長老たちの幾人かが立って、民の全集団に語って言った。(17節)

 首長や民は、エレミヤが神の名によって語っている事実を認めたのです。
 たとえ耳が痛い預言でも、「神の名で語られた預言者のことばは聞き入れられた」と、預言者ミカの前例を持ち出します。
 
 「かつてモレシェテ人ミカも、ユダの王ヒゼキヤの時代に預言して、ユダのすべての民に語って言ったことがある。
  『万軍の主はこう仰せられる。
  シオンは畑のように耕され、
  エルサレムは廃墟となり、
  この宮の山は森の丘となる。』(18節)

 そのとき、ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人は彼を殺しただろうか。ヒゼキヤが主を恐れ、主に願ったので、主も彼らに語ったわざわいを思い直されたではないか。ところが、私たちは我が身に大きなわざわいを招こうとしている。」(19節)

 ミカは、エレミヤより100年ほど前にユダ王国で活躍した預言者です。ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代です。ここに例として上げられている預言はヒゼキヤ王の時のものです。ヒゼキヤ王がこの時、ミカの預言を聞き入れて悔い改めたのです。その結果、わざわいを回避した事例が上げられたのです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)

 このように首長や民の側からの反証が通ったということは、この時代、かならずしも祭司や預言者の権威が万能ではなかったのかもしれません。祭司や預言者が堕落していたのは事実だったのでしょう。でなければ、神殿にアシェラやバアルの像や祭司用具がおかれたりするはずもないのです。刻々と迫る国の崩壊と、バビロンの軍靴に危機感を抱いていたのは、だれよりも実際に「生活している」民であったはずです。

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 それに、エレミヤはすべての預言者を敵に回しているのではありませんでした。

 ほかにも主の名によって預言している人がいた。すなわち、キルヤテ・エアリムの出のシェマヤの子ウリヤで、彼はこの町とこの国に対して、エレミヤのことばと全く同じような預言をしていた。(20節)
エホヤキム王と、そのすべての勇士や、首長たちは、彼のことばを聞いた。王は彼を殺そうとしたが、ウリヤはこれを聞いて恐れ、エジプトへ逃げて行った。(21節)

 このウリヤも命を危険にさらしたのです。王の怒りを買いました。ただ、彼はエレミヤのように、毅然と振る舞うことができませんでした。エジプトへ逃げたのです。

 そこでエホヤキム王は人々をエジプトにやった。すなわち、アクボルの子エルナタンに人々を同行させて、エジプトに送った。(22節)
 彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。(23節)

 今日の政治的亡命なら、亡命先の国が保護してくれることもあります。しかし、この頃は、有力者や縁故が頼りだったのかもしれません。エリヤほどの預言者でも、イザベラの報復を恐れて逃げました。この世の権力をもたない預言者は、遠くへ逃げるしかなかったのです。しかし、権力者が多くの追っ手をかければ、勝目はありません。ウリヤは殺されてしまったのです。
 
 対するエレミヤは、「このとおり、私はあなたがたの手の中にあります。私をあなたがたがよいと思うよう、正しいと思うようにしなさい」(エレミヤ書26章14節)と命を張ることができました。

 そのようなエレミヤには、味方になってくれる有力者が現れました。いえ、神が味方をして下さったのです。

 しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。(24節)









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