2016年09月16日

エレミヤ書96 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ書31章20節〜34節)



  エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
  それとも、喜びの子なのだろうか。
  わたしは彼のことを語るたびに、
  いつも必ず彼のことを思い出す。
  それゆえ、わたしのはらわたは
  彼のためにわななき、
  わたしは彼をあわれまずにはいられない。
  ――主の御告げ――(エレミヤ書31章20節)
  あなたは自分のために標柱を立て、
  道しるべを置き、
  あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。
  おとめイスラエルよ。帰れ。
  これら、あなたの町々に帰れ。(21節)
  裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。
  主は、この国に、一つの新しい事を創造される。
  ひとりの女がひとりの男を抱こう。」(22節)

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 クリスチャンになってから時間が経っていても、熱心なクリスチャンであるように見えても、「おびえている」人を見ることがあります。傷ついたことが一番大きな関心事のようで、一向に傷から立ち直っていないかのように見える人があります。
 みことばさえ、鞭になっている人がいます。「地の塩、世の光」の塩が傷口にすり込まれているかのように気むずかしかったり、「強い光」の前にすくんでしまったりしているクリスチャンがいらっしゃるのです。

 ある姉妹は、お証しの中で、「神は厳しく罰する方なので」と言いました。もちろん、それは一面真実でしょう。クリスチャンファミリーに育ち、ずっと教会につながれ信仰を保ち、よき奥さんであり母である彼女が、旧約聖書のイスラエルの民と同じような扱いを、神様から受けるかも知れないと「反省」しているのです。それは、彼女があまりにも忙しくして、病気になってしまった結果なのです。
 同様の「悔い改め」をしばしば耳にするので、私は、「私たちの神、キリストとなって世に来てくださった神」は、それほど厳しい、もっと言えば意地悪な方でしょうかと、思うほどです。

 病気はだれでもなりますし、それどころか、回復しない病気もあるわけです。死は避けられず、それは、100歳まで生きても120歳まで生きても同じでしょう。それがもし、罰だというなら、それは、「楽園追放」そのものが罰だからその通りでしょう。園の中央にあった「いのちの木」から取って食べられなくなったので、人間は死ぬ者となったのです。
 けれども、楽園から追放した人間をご覧になって、神様は「高笑い」をしておられたでしょうか。神様は怒りながら、悲しまれ、それでも、罪によって隔てられた人間の行く末を案じ、その一挙手一頭足(いっきょしゅいっとうそく)までご覧になっていたのは、カインに対する切実な忠告や、赦しや、特例措置を見るだけで明らかです。
 人を造ったことを後悔し、すべてを滅ぼそうと決意なさったのに、ノアとその家族は、箱舟に避難させたのです。
 イスラエルの民に、出エジプトも果たさせ、荒野の40年も達成させ、カナンにも入れて下さったのです。

 たとえば、出エジプト記の話を見ても、これは、追いかけてくる巨大台風と必死で戦いながら、何とか雨風を振り切って陸地を見つけた「偉大な」人間の「航海の話」ではないはずです。罰は、神のお示しになる航路を、信頼しきって歩もうとせず、すぐに「落ち込んだり」「わめいたり」「自分勝手な進路に進んだり」する者にたいする神の「警告」であるのは、全体を読めば明らかです。

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 王国の時代の叛きは、神からご覧になると「許しがたい」ものだったでしょう。エルサレム神殿を建てたソロモン自身が、イスラエル王国の分裂を招いたのですから、人が神の前に完全であることの難しさは、明らかです。
 イスラエル王国は、けっきょく滅びました。民は他国に連れ去られ、神殿は破壊されました。まさに、根こそぎ「命を絶たれる」ほどの、試練にあったのです。
 その時に、神は真実の預言者エレミヤを召されるのです。

 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
 「わたしが彼らの捕われ人を帰らせるとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』(23節)
 ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。(24節)
 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。(25節)
 ――ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった――(26節)
 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。(27節)
 かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ――(28節)
 その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。(29節)
 人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。(30節)

 ここで、「自分の咎」と言われているのは、かなり根源的な罪ではないでしょうか。
 知恵の実を食べたために、私たちは死ぬことになったのです。

 その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。(創世記3章6節)

 この実の味は「酸いぶどうの味」だったのでしょう。

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 にもかかわらず、「回復して下さる」との約束が預言されています。

 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(31節)
 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

 「新しい契約」は、出エジプトの時の契約とはまた違うのです。
 古い契約は、民の方から破ってしまったのです。神殿も律法もずたずたになってこわれてしまったのです。

 わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――(32節)
 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を 彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(33節)

 新しい契約が結ばれるのです。その律法は、それぞれの人の心の中に置かれるのです。

 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(34節)

 このようなことができるのは、神ご自身が人の罪を贖って下さるからです。キリストが罪を負って死んで下さる故です。

 救い主が来られた後の時代、キリストを信じている私たちが、必要以上に神の罰を恐れ、自分でつけた傷口すら神による罰であるかのようにおびえるのを、神様はお喜びになるでしょうか。それは、謙遜な態度なのでしょうか。
 





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2016年09月17日

エレミヤ書97 もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、(エレミヤ書31章35節〜40節)



  主はこう仰せられる。
  主は太陽を与えて昼間の光とし、
  月と星を定めて夜の光とし、
  海をかき立てて波を騒がせる方、
  その名は万軍の主。(エレミヤ書31章35節)

 昨夜、NHKのEテレで、モーガン・フリーマンの「時空を超えて――太陽のない世界、人類は生存可能か」を放映していた。
 宇宙のお話は面白いと思うけれど、これが太陽系を超えて、また、私たちが見ている物理的サイズより小さい素粒子だとか、ブラックホールだとか、またまた、太陽が消滅する100億年(?)後の話となると、正直、私の理解を超えるのです。

 もちろん、私も頭の中では、いつか、100億年後が来ると信じているようです。太陽が消滅する日については、小学生でも教えられるのです。太陽が無くなったら、地球も「死の世界」になると、耳がタコになるほど教えられました。その前に、移住先を探して、そのために、宇宙探査船を飛ばして、月に行ったり、火星や木星の写真を撮ったり、何処かに文明をもった星はないかと、日夜天体を観測していたり・・・、そのような宇宙事業に、ものすごいお金と頭脳が使われていることも、何となく「知っている」のです。

 私が小学生の頃、先生が教室で語ったものです。
 「君たちが大きくなって結婚するころには、月への新婚旅行ができるかもしれないよ」
 少なくとも、私にとっては「自分の足で踏みしめられる月」は、さほど魅力的ではなかったのです。かぐや姫の話を信じられる方が良かったからです。じっさいには、月に行ったのはアメリカの数人の宇宙飛行士だけで、今もって、宇宙旅行は、一般人には夢の夢です。幸いなことに!!

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 このような「科学番組」はもちろん、面白いのです。もう少し私に知識があれば、きっともっとよく理解できたでしょう。ただ、知識がなくても、わかることがあります。
 「こうやって、ああやって、ブラックホールを作って、そこを通りぬけて」と、時空を語るのは良いのですが、しかし、それは100億年後かそれ相応の途方もない歴史の果てに、考えられるかもしれないことです。

 前提は、この宇宙を人類は、「自由自在に操れる」という発想です。
 宇宙が生まれた時、私たちはそれを知らなかったのです。今でも、宇宙創成には多くの説があり、じつは、日々、「発展?」しているのです。
 「私たちは、どこから来てどこに行くのか」は、私にとってだけでなく、すべての人にとって永遠の問いではないでしょうか。
 自分が、頭で考えれば、「実現できる」という楽観性は、悪いことだとは思えませんが、それにしても、そこには、大きな力にたいする、そもそも存在に対する「畏れ」がないのだなあ、と思わせられるのです。

 ヨブ記の中のことばを、何となく思い出しました。

  わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
  わたしが地の基(もとい)を定めたとき、
  あなたはどこにいたのか。
  あなたは悟ることができるなら、告げてみよ。
  あなたは知っているか。
  だれがその大きさを定め、
  だれが測りなわをその上に張ったかを、   (ヨブ記38章3節〜5節)

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  「もし、これらの定めがわたしの前から
  取り去られるなら、――主の御告げ――
  イスラエルの子孫も、絶え、
  いつまでもわたしの前で、
  一つの民をなすことはできない。」(エレミヤ書31章36節)
  主はこう仰せられる。
  「もし、上の天が測られ、
  下の地の基が探り出されるなら、
  わたしも、イスラエルのすべての子孫を、
  彼らの行なったすべての事のために退けよう。
  ――主の御告げ――(37節)

 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、この町は、ハナヌエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。(38節)
測りなわは、さらにそれよりガレブの丘に伸び、ゴアのほうに向かう。(39節)
 死体と灰との谷全体、キデロン川と東の方、馬の門の隅までの畑は、みな主に聖別され、もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない。」(40節)

 見よ。その日が来る。ということばは、強烈なインパクトがありますね。
 これを聞いた捕囚の民はみな、耳鳴りがしたことでしょう。






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2016年09月18日

エレミヤ書98 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、(エレミヤ書32章1節〜25節)



 ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年に、主からエレミヤにあったみことば。(エレミヤ書32章1節)
 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた。(2節)


 ヨシヤ王の死後、ユダ王国は急坂を転げ落ちるように滅亡に向います。ヨシヤの子エホアハズ、エホヤキム、その子エホヤキン、エホヤキンのおじゼデキヤの四人の王は、人間の目で見ればいずれも「悲劇の王」でした。
 エホヤキムの時代からエルサレムは、バビロンのネブカデネザルに攻められ、第一回、第二回、第三回と捕囚に連れ去られます。とりわけ、ゼデキヤの治世の9年に始まったバビロン軍によるエルサレムの包囲は、11年まで足かけ3年間にわたり、エルサレムはいわば兵糧攻めにあっていたので、飢え渇き、疫病がはびこり、イスラエル人同士の殺し合いがはじまるほどでした。

 この時、エレミヤが王の家に監禁されていたのは、王に都合の悪い預言をするからでした。

 彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、「なぜ、あなたは預言をするのか。」と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。(3節)
 ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。(4節)
 彼はまた、ゼデキヤをバビロンへ連れて行く。それでゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいる。――主の御告げ――あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない。』」(5節) 

 たしかに、敵からの包囲を必死に持ちこたえようとしている王にとっては、エレミヤの預言は許しがたいものでした。まして、動揺が広がっているエルサレムの中で告げてほしくないことばです。戦いの最中に「勝つことはできない」などという託宣を聞きたい人がいるでしょうか。

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 そのとき、エレミヤは言った。「私に次のような主のことばがあった。(6節)
 見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。(7節)
 すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。(8節)
 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。(9節)
 すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、(10節)
 命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、(11節)
 おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、 購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、(12節)
 彼らの前で、バルクに命じて言った。(13節)

 これは、預言をしているエレミヤ自身の信仰が問われている個所です。いきさつはわかりませんが、「エレミヤのおじさんがやってきて、ベニヤミンの地アナトテの彼の土地を買い取ってほしいと頼むであろう」との主のことばがありました。これは、エレミヤがそのおじから見て「買い戻しの権利」のある親戚だったからでしょう。
 事実その通りだったので、エレミヤはおじの畑を買戻し、お金も払ってやり、法的な証書の手続きもしたのです。
 主の御命令どおり行ったのです。

 『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。(14節)
 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。」(15節)

 しかし、エレミヤの気持ちの中では釈然としないものがあったのでしょう。
 エレミヤは、主の前に長々と煩悶の気持ちをそそぎだしています。

 私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡して後、主に祈って言った。(16節)
 「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。(17節)
 あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。(18節)
 おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行ないの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。(19節)
 あなたは今日まで、エジプトの国で、イスラエルと、人の中で、しるしと不思議を行なわれ、ご自身の名を、今日のようにされました。(20節)
 あなたはまた、御民イスラエルを、しるしと、不思議と、強い御手と、伸べた御腕と、大いなる恐れとをもって、エジプトの国から連れ出し、(21節)
 あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を彼らに授けられました。(22節)
 彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行なわなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに会わせなさいました。(23節)
 ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。(24節)
 神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」(25節)









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2016年09月19日

エレミヤ書99 土地を買い戻す理由、(エレミヤ書32章24節〜44節)



 ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。(エレミヤ書32章24節)
 神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」(25節)

 おじさんの畑を買い戻して法的手続き――証人を立てよとのご命令は、戦いが負け戦であると預言を受けたエレミヤにとっては、承服しがたいことでした。
 今の時代にたとえれば、核戦争で日本が滅びるとわかっている時に、土地を買っておくのと同じです。りっぱな業者を仲介者にし、法的手続きを完ぺきなものにしても、国が崩壊してしまったら、何の意味があるのか、です。

 エレミヤの問いに神は答えて下さいます。

 エレミヤに次のような主のことばがあった。(26節)
 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」(27節)
 「それゆえ、主はこう仰せられる。見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。(28節)
 また、この町を攻めているカルデヤ人は、来て、この町に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。(29節)
 なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行ない、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。――主の御告げ――(30節)
 この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。(31節)

 神は、すぐには、エレミヤが「ホッとする」ような答えを下さいません。
 エルサレムは滅びるのです。ネブカデレザルの部下であるカルデヤ人がエルサレムを占領し、町に火を付けるのです。それは、同時にバアルの神殿をも焼き尽くすことになります。そのようにして神は、イスラエル子らが繰り返してきた、神に対する不義を取り除くと仰せなのです。

 それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、またユダの人もエルサレムの住民も、わたしの怒りを引き起こすために行なった、すべての悪のゆえである。(32節)

 神に不義をしていたのは、誰か一人ではありません。じつに、王から首長、祭司、預言者、庶民に至るまですべてのイスラエル人が、神に叛いていたのです。

 彼らはわたしに、顔ではなくて背を向け、わたしがしきりに彼らに教えるが、聞いて懲らしめを受ける者もなく、(33節)
 わたしの名がつけられている宮に忌むべき物を置いて、これを汚し、(34節)
 わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌みきらうべきことを行なうために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた。」(35節)

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 エルサレムは、剣と飢饉と疫病に苛まされています。その上、敵バビロン軍によって最終的に、「焼かれる」のです。

 それゆえ、今、イスラエルの神、主は、あなたがたが、「剣とききんと疫病により、バビロンの王の手に渡される。」と言っているこの町について、こう仰せられる。(36節)

 次からは、回復の預言です。どのように荒廃したとしても、エルサレムは神の都です。最初から、神は回復を意図されていたのでしょう。

 「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。(37節)

 一度は捕囚に連れ去られ、相続地を完全に失ったように見える人々も、戻ってくると約束して下さるのです。もう一度、安らかに住まわせて下さるというのです。

 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(38節)
 わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、(39節)
 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。(40節)

 「契約を結ぶ」が繰り返されます。新しい契約です。

 わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」(41節)

 本来、私たちが「心を尽くし、思いを尽くして」神を愛するように命じられていたのです。(申命記6章5節)、ところが、ここで、神は神ご自身がその愛を示して下さると預言しています。

 まことに、主はこう仰せられる。「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。(42節)

 イスラエルの人たちが願っている「幸せな生活」が回復するのです。とうぜん、畑が耕され、売買が復活します。

 あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人の手に渡される。』と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる。(43節)
 ベニヤミンの地でも、エルサレム近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、低地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの捕われ人を帰らせるからだ。――主の御告げ――」(44節)

 エレミヤが買い戻したおじさんの土地、その証書が生きて意味を持つ日がやってくるというのです。

 アーメン!





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2016年09月20日

エレミヤ書100 わたしを呼べ(エレミヤ書33章1節〜3節、詩編50篇15節)



 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。(エレミヤ書33章1節)
「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。(2節)

 おじさんの土地を買い戻せとの、主の御命令に対し、エレミヤは納得できない気持ちでいます。そこで主は、仰せになります。

 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(3節)

 「わたしを呼べ」とのみことばに接して、じつは私自身がとても「救われた」気持になっています。
 エレミヤの置かれた苦難に較べれば、私の今いる世界の困難は、なにほどのこともないかもしれません。若いエレミヤが預言者という厳しい召しを受けて、牢獄に入れられても神のことばを取り次いでいる――。それに比べたら、いったい自分は、神様のために何ができているのだろうかと思わせられます。
 しかし、行き詰まりを感じるときがあり、すべてを失って捕囚に連れ去られるしかないと、前途を悲観しそうになることもあるのです。

 ところが、神は告げられるのです。「わたしを呼べ」。ああ、そうだった。呼べば答えて下さる神様だったのに・・・と、目を上げるのです。

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   「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
   わたしはあなたを助け出そう。
   あなたは私をあがめよう。」(詩篇50篇15節)

 この有名な聖句を、ある牧師がお証ししていました。
 牧師のお父さんは、遠洋航路の貨物船の船長さんでした。律儀な愛国者で、息子さんがクリスチャンになったことで、とても怒っていました。牧師は(当時、牧師だったかどうかはわかりませんが)、何とかお父さんにわかってもらおうと、いつもいっしょけんめいイエス様のことを説明していましたが、頑固なお父さんは受け付けません。

 お父さんが遠洋航海に出るとき、牧師は波止場にお父さんを見送りに行きました。
 あまりしゃべってもらえそうにないとわかっていたので、聖書を渡し、その中の詩篇50篇15節のページにしおりを挟んで、15節はしっかりマークを付けておきました。
 「お父さん。もしも、困ったことが起ったら、ここを開けて見てください。」
 ともかく、お父さんは聖書を受け取ってくれました。

 ところが、船がニューヨークの港を目前にして、とつぜんエンジンが故障をして動かなくなりました。機関士や船員が原因をさがしましたが、わかりません。

 船は洋上で一日、二日、三日と立往生してしまいました。船長であるお父さんは、本国の会社から、毎日のように催促の電報を受け取りました。
「まだか。まだか」というわけです。
 積荷は、商品です。到着が遅れるとそれだけ船会社が弁償しなければならなかったのです。
 船長であるお父さんはもちろん、事態の深刻さをよくわかっていました。必死であれこれ修理をしてみるのです。

 その時、ふとお父さんは、息子が聖書をくれるときに言った言葉を思い出しました。
「困った時には、見てほしいと言っていたな。」
 開いてみると、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と書いてあります。
 お父さんは、一心に、お祈りを始めました。

 ほどなく、船員が船長のもとに走ってきました。
「船長。エンジンが動き出しました!」

 お父さんはその後、すぐクリスチャンになり、亡くなるまでしっかりしたクリスチャンとして過ごしました。
 
 年配の牧師のお名前を覚えていないのですが、当時九州で牧会をしておられるようでした。テレビ局は、韓国のCGNTVでした。
「わたしを呼び求めよ」との言葉を聞くたびに、そのお証しを思い出します。 





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