2016年09月21日

エレミヤ書101 わたしを呼べ。2(エレミヤ書33章3節〜14節)



 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ書33章3節)

 詩編では、私たちが神を呼び求めれば、「わたしはあなたを助けよう。あなたはわたしをあがめよう」と言われています。
 この「助けよう」の中身が、ここでは具体的に示されています。それは、人の「理解を越えた大いなること」なのです。

 まことにイスラエルの神、主は、塁と剣で引き倒されるこの町の家々と、ユダの王たちの家々について、こう仰せられる。(4節)
 彼らはカルデヤ人と戦おうとして出て行くが、彼らはわたしの怒りと憤りによって打ち殺されたしかばねをその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のために、わたしがこの町から顔を隠したからだ。(5節)

 ユダの人びとは、ともかくバビロンに対して、必死で戦っていたのです。神の目からご覧になれば見当違いの道かもしれないけれど、エホヤキムもエホヤキンもゼデキヤも、何とかユダ王国の延命を図ろうと、政略をめぐらせ、また、戦いに出たのです。ことごとくうまくいかなかったのは、主が「彼らのすべての悪のために、わたしがこの町から顔を隠したからだ。」と言われるとおりの結果になっただけなのです。
 けれども、敵に囲まれた籠城状態の中で、主は仰せなのです。
 
 見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。(6節)
 わたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す。(7節)
 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。(8節)

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「理解を越えた大いなる事」は、具体的には、次のようなことが実現することです。

 この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」(9節)
 主はこう仰せられる。「あなたがたが、『人間も家畜もいなくて廃墟となった。』と言っているこの所、人間も住民も家畜もいなくて荒れすたれたユダの町々とエルサレムのちまたで、(10節)
 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。それは、わたしがこの国の捕われ人を帰らせ、初めのようにするからである。」と主は仰せられる。(11節)

 これは廃墟が復活する場面を想起させます。たとえば、焼け野原だった東京、原爆で壊滅した広島や長崎などが、立ち直り、平和で繁栄した光景が広がっているというような。同様に、第二次世界大戦後、ヨーロッパの町々が、不死鳥のようによみがえったというように。
 ですが、この箇所を、「焦土に繁栄が戻ること」と、適用して読むのは間違いかもしれません。
 「この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる」と宣言されているのです。
 エルサレムには、神の国の歴史において、特別な使命と役割りが与えられています。エルサレムが回復することは、世界中の人々が、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。」と、喜ぶことだと示されています。
 回復の様子が言葉を変えて語られています。

 万軍の主はこう仰せられる。「人間も家畜もいなくて廃墟となったこの所と、そのすべての町々に、再び、群れを伏させる牧者たちの住まいができる。(12節)
 この山の町々でも、低地の町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレム近郊、ユダの町々でも、再び群れが、数を数える者の手を通り過ぎる。」と主は仰せられる。(13節)
 「見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。(14節)








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2016年09月22日

エレミヤ書102 わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。(エレミヤ書33章15節〜26節)



 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。(エレミヤ書33章15節)
 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」(16節)
 まことに主はこう仰せられる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。(17節)
 またレビ人の祭司たちにも、わたしの前で全焼のいけにえをささげ、穀物のささげ物を焼き、いつもいけにえをささげる人が絶えることはない。」(18節)

 この預言そのものは、ある程度聖書を読んできた人なら、「救い主預言」だと考えます。ダビデの若枝、公儀と正義を行なう人、ダビデの王座が永遠に保たれる約束。それは、ダビデ家の末から生まれる救い主キリストを置いては、考えられません。

 エレミヤに次のような主のことばがあった。(19節)
 「主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、(20節)
 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。(21節)
 天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」(22節)

 神は、創造のみわざのはじめに、光を生じさせ、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられたのです。(創世記1章3節4節)これは、神の万物を治める法則でした。
 この創造の初めにおいて、神は全地の存在について、すべての権能をお持ちになることを示されたと言えます。
 ですから、人に対する契約――、ノアに対する契約、アブラハムに対する契約、シナイ山での契約、ダビデへの契約なども、すべて動かしがたいのです。その神が、ダビデの子孫とレビ人を増やすと約束しています。

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 エレミヤに次のような主のことばがあった。(23節)
 「あなたは、この民が、『主は選んだ二つの部族を退けた。』と言って話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民をもはや一つの民ではないと見なして侮っている。」(24節)
 主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、(25節)
 わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」(26節)

 にもかかわらず、ユダとイスラエルの民は、絶望のあまり、「主は、選んだ二つの部族を退けた」と言っていたのでしょう。その不信仰にたいして、神は注意を喚起しているように思います。
 昼と夜を創った神が、それを動かしがたいものとして定められたように、神は、神の権能をもって、「捕らわれ人を帰らせる。彼らをあわれむ」と言われます。

 このような約束の結果、私はイエスさまに祈り、イエスさまに救われ、さらにあわれんで下さるように祈っていると確信できます。「捕らわれ人である」私が帰る所は、おのずと、明らかだと喜んでいます。








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2016年09月23日

エレミヤ書103 主のご命令――奴隷の解放(エレミヤ書34章1節〜10節)




 バビロンの王ネブカデレザルと、その全軍勢、および彼の支配下にある地のすべての王国とすべての国々の民が、エルサレムとそのすべての町々を攻めていたとき、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。(エレミヤ書34章1節)
 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。行って、ユダの王ゼデキヤに告げて言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。彼はこれを火で焼こう。(2節)
 あなたはその手からのがれることができない。あなたはかならず捕えられて、彼の手に渡されるからだ。あなたの目はバビロンの王の目を見、彼の口はあなたの口と語り、あなたはバビロンへ行く。』(3節)
 ユダの王ゼデキヤ。ただ、主のことばを聞きなさい。主はあなたについてこう仰せられる。『あなたは剣で死ぬことはない。(4節)
 あなたは安らからに死んで、人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よと言ってあなたをいたむ。このことを語るのはわたしだ。』――主の御告げ――」(5節)
 そこで預言者エレミヤは、これらすべてのことばを、エルサレムでユダの王ゼデキヤに語った。(6節)
 そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。(7節)

 ゼデキヤはもともと、バビロンによって立てられた王でした。エホヤキン王が多くの高官や民とともに、バビロンに捕囚となったあと、エホヤキンのおじエコヌヤが、ゼデキヤと名を変えて王位に就いたのです。彼は、いわばバビロンの傀儡(かいらい)でした。
 そのゼデキヤは、なかなかバビロンに服従することができなかったのです。理由はエジプトへの気遣いでした。

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 ヨシヤがエジプト王パロによって殺された後、彼の子エホアハズが即位しましたが、再び、パロ・ネコに攻められて廃位になり、エジプトに連れ去られて死にました。
 エジプトは、エホアハズのあとにエホアハズの兄弟エホヤキムを立てました。このとき、バビロン王ネブカデネザルが攻め上ってきました。エホヤキムは三年間バビロンに服従しましたが、その後反逆しました。彼はエジプトに立てられた王でしたから、反逆の機会を待っていたのでしょう。
 エホヤキムが死んだ後、その子エホヤキンが即位したのですが、すぐにネブカデネザルに攻められ、わずか三カ月でバビロンの捕虜になります。そのころ、エジプトはエジプト王に属していた領土をバビロンに占領されていたからです。(U列王記24章7節)

 このいきさつからもわかる通り、エルサレムを取り巻く政治情勢はバビロン色が強かったのです。しかし、ユダ王国の政権内には、エジプト側に立つ人のまだまだ多かったと思われます。
 
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 ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。(8節)
 ――それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。(9節)
 契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた。(10節)

 国難に見舞われているゼデキヤは、思い切った政策を行ないます。
 へブル人奴隷の解放です。これは、主からエレミヤにあったみことばに従ったのです。
 多くの首長や民が、奴隷解放の契約に同意し、じっさいに奴隷を去らせたのです。しかし、民は、ここでも、主のことばに従い通すことができませんでした。

 しかし、彼らは、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。(11節)
 そこで、主からエレミヤに次のような主のことばがあった。(12節)








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2016年09月24日

エレミヤ書104 契約を守れない民(エレミヤ書34章13節〜22節)



 ゼデキヤ王の時代、ユダ王国はへブル人奴隷の解放を行ないました。「民と契約を結んで、奴隷の解放を宣言した」のです。
 これは、元々の神のおきてに従った行為でした。イスラエル人はエジプトで全員奴隷だったのです。じつに神のあわれみによって、解放奴隷としてエジプトを出て来たのです。主の選びの民の中が同じ民を奴隷にして良いはずがありません。
 ですから、シナイ契約の十戒が示されたすぐ後の、出エジプト記21章には、「へブル人奴隷」に対する厳しい規則が定められています。(出エジプト記21章2節〜11節)
 たとえば、へブル人奴隷は6年間無償で働いた後、7年目には解放されなければならないなどです。

 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしが、あなたがたの先祖をエジプトの国、奴隷の家から連れ出した日に、わたしは彼らと契約を結んで言った。(エレミヤ書34章13節)
 七年の終わりには、各自、自分のところに売られて来た同胞のヘブル人を去らせなければならない。六年の間、あなたに仕えさせ、その後、あなたは彼を自由の身にせよと。しかし、あなたがたの先祖は、わたしに聞かず、耳を傾けなかった。(14節)

 このような預言が下るのは、時代を経て、律法が忘れ去られ、奴隷の身分のまま一生を終わり、またその子供も奴隷である人たちがたくさんいたのでしょう。

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 しかし、あなたがたは、きょう悔い改め、各自、隣人の解放を告げてわたしが正しいと見ることを行ない、わたしの名がつけられているこの家で、わたしの前に契約を結んだ。(15節)
 それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚し、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷をかってに連れ戻し、彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷として使役した。』(16節)

 せっかくの良い施策も、すぐに元の木阿弥になってしまったのです。結局、民は契約を破って奴隷を連れ戻してしまったというのです。

 それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたがたはわたしに聞き従わず、各自、自分の同胞や隣人に解放を告げなかったので、見よ、わたしはあなたがたに――主の御告げ――剣と疫病とききんの解放を宣言する。わたしは、あなたがたを地のすべての王国のおののきとする。(17節)

 もちろん、主はお怒りになったのです。

 また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。(18節)
 二つに分けた子牛の間を通った者は、ユダの首長たち、エルサレムの首長たち、宦官と祭司と一般の全民衆であった。(19節)

 契約の時に、二つに分けた動物の間を通る例は、アブラハム契約のときに現れます。(創世記15章9節〜17節)
 切り分けた動物の間を通ることで、「契約を破った時に、その動物のようになる」のを意味しています。
ユダの民は、奴隷を解放するという契約を破ったのです。神は次のように言われます。

 わたしは彼らを、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。そのしかばねは空の鳥、地の獣のえじきとなる。(20節)
 わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。(21節)
 見よ。わたしは命じ、――主の御告げ――彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。』」(22節)








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2016年09月25日

エレミヤ書105 レカブ人に酒を飲ませよ(エレミヤ書35章1節〜19節)



 エレミヤの預言の背景は、エホヤキムの時代にもどっています。
 預言の趣旨は、「レカブ人に酒を飲ませよ」です。レカブ人は、先祖からの禁欲的な生活スタイルを厳格に守っている部族でした。ぶどう酒を飲まず、ぶどうの栽培など農業をせず、建物に住まず、つまり土地を持たず、天幕暮らしをするのです。生業は牧畜でした。
 モーセの舅イテロの子を先祖に持つとされ、ヤーウエを信仰した後は、砂漠に住んだとされています。

 偶像礼拝をするエルサレムの民に、神はこのレカブ人の、ストイックな信仰者に酒を飲ませよと仰せなのです。
 それは、彼らを堕落させるためではなく、絶対に彼らが、酒を飲まないことを承知のうえでの御命令なのです。いわば、神が仰せになりたいことを、例示するためにレカブ人が上がっているのです。その固い信仰――先祖からの言い伝えを守る態度を、ユダの人々と対比させているのです。

 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの時代に、主からエレミヤにあったみことばは、こうである。(エレミヤ書35章1節)
 「レカブ人の家に行って、彼らに語り、彼らを主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」(2節)
 そこで私は、ハバツィヌヤの子エレミヤの子であるヤアザヌヤと、その兄弟と、そのすべての息子と、レカブ人の全家を率い、(3節)
 彼らを主の宮のイグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。それは、首長たちの部屋の隣にあり、入口を守る者シャルムの子マアセヤの部屋の上にあった。(4節)
 私は、レカブ人の家の子たちの前に、ぶどう酒を満たしたつぼと杯とを出して、彼らに「酒を飲みなさい。」と言った。(5節)
 すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。それは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。(6節)
 あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め。』と言ったからです。(7節)
 それで、私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従い、私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生、ぶどう酒を飲まず、(8節)
 住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持ちません。(9節)
私たちは天幕に住み、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、聞いて行なってきました。(10節)
 しかし、バビロンの王ネブカデレザルがこの国に攻め上ったとき、私たちは『さあ、カルデヤの軍勢とアラムの軍勢を避けてエルサレムに行こう。』と言って、エルサレムに住んだのです。」(11節)

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 そこで、エレミヤに次のような主のことばがあった。(12節)
 「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。行って、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『あなたがたはわたしのことばを聞いて懲らしめを受けようとしないのか。――主の御告げ――(13節)
 レカブの子ヨナダブが、酒を飲むなと子らに命じた命令は守られた。彼らは先祖の命令に聞き従ったので、今日まで飲まなかった。ところが、わたしがあなたがたにたびたび語っても、あなたがたはわたしに聞かなかった。(14節)
 わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび送って、さあ、おのおの悪の道から立ち返り、行ないを改めよ。ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない。わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住めと言ったのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。(15節)
 レカブの子ヨナダブの子たちは、先祖が命じた命令を守ってきたのに、この民はわたしに聞かなかった。』(16節)
 それゆえ、イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らが聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らが答えなかったからだ。』」(17節)

 先祖からの戒めを堅く守るレカブ人に較べて、イスラエルの人々がどのようであったかを改めて指摘しています。「神が預言者をたびたび送って来た」時代とは、分裂王国時代をすべて指しています。預言者たちに聞かず、ほかの神々を慕って仕えてきたイスラエルの
民の罪をあらためて指摘しています。
 イスラエル人がわざわいを下されると宣告されているのに対して、神は、レカブ人に対しては、次のように約束しておられます。

 エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行なった。』(18節)
 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(19節)









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