2016年09月07日

エレミヤ書87 対立する預言のなかで――彼らはあなたがたに、偽りを預言しているからだ。{エレミヤ書27章12節〜22節)



 ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばのとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。(エレミヤ書27章12節)
どうして、あなたとあなたの民は、バビロンの王に仕えない国について主が語られたように、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。(13節)

 聖書に見る預言者とは、どうやら、神から政治的進路を示される人のようです。私たちが個人的に願う、たとえば、結婚相手はAかBかとか、どれに投資すべきかとか、A病院かB病院などという個人的な問題には関わっていないかのようです。そのような人は、占いやくじで選択を決めたのかもしれません。神様は、私たち個人個人の人生を、もちろん、気にしてはおられると思いますが、結局、個人の幸福は大きな社会情勢のなかで呑み込まれてしまうのも歴史的事実です。為政者が進路を間違ったために、どれだけの個人の幸福が犠牲になったかは歴史にいくらでも例が挙げられます。

 たとえば、出エジプトです。神はイスラエルの民をエジプトから導き出すのにモーセを起用されました。  60万人の同胞を荒野に連れ出すモーセの重荷は大変大きなものだったと思いますが、イスラエルの民をエジプトからカナンに移し、「選びの民の国」を立てるというのが神の御計画だったのです。ですから、神も尋常ならぬ奇蹟や不思議を起こされてモーセを支援されるのです。
 個人的には、たしかに60万人のイスラエル人のすべてが出エジプトをしたかったかどうかは、わからないでしょう。中には、奴隷としても主人に可愛がられて「良い暮らし」の者もいたでしょうし、少なくとも食べるくらいは十分食べられたのです。ですから彼らは荒野で、何度も「こんなことなら、エジプトにいた方がよかった」などとつぶやいて、神を怒らせるのです。

 ヨシュアも、士師記の時代の士師たちも、サムエルも政治的な指導者でした。
王国時代の預言者は政治的権威と権力から切り離されますが、関与している預言はほとんどすべて、政治的なものです。

 これは、預言者の立場の厳しさを表わしているのではないでしょうか。今日でも、楽しい社交の席では、政治と宗教の話はしないほうがよいと言われます。その立場を異にすることは、深刻な対立を生むからです。

★★★★★

「バビロンの王に仕えることはない」とあなたがたに語る預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたに偽りを預言しているからだ。」(14節)

 国論が二つに割れているのです。エレミヤとは反対の進路を示す預言者がいたのです。
 南の大国エジプトに付くべきだという勢力です。

 「わたしは彼らを遣わさなかったのに、――主の御告げ――彼らは、わたしの名によって偽りを預言している。それでわたしはあなたがたを追い散らし、あなたがたも、あなたがたに預言している預言者たちも滅びるようにする。」(15節)
 私はまた、祭司たちとこのすべての民に語って言った。「主はこう仰せられた。『見よ。主の宮の器は、今すみやかにバビロンから持ち帰られる。』と言って、あなたがたに預言しているあなたがたの預言者のことばに聞いてはならない。彼らはあなたがたに、偽りを預言しているからだ。(16節)

 エレミヤは神のことばを預かって語っているのです。ですから、エレミヤと異なる預言をする者は「偽りを預言している」のです。

 彼らに聞くな。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この町が廃墟となってよかろうか。(17節)
 もし彼らが預言者であり、もし彼らに主のことばがあるのなら、彼らは、主の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の主にとりなしの祈りをするはずだ。(18節)

 民にはどれが本物の預言かわかりませんが、そこがエレミヤにとっては、「つらい」ところです。預言者自身は、神のことばを聞いているはずだからです。そうすれば、王家の家やエルサレムに残されている宝物が持ち去られるのはわかるはずなのだから、そうならないよう、「とりなしの祈り」をするべきだと、エレミヤは言うのです。
 主の宣告は、はっきりしているのです。

 まことに万軍の主は、宮の柱や、海や、車輪つきの台や、そのほかのこの町に残されている器について、こう仰せられる。(19節)
 ――これらの物は、バビロンの王ネブカデネザルがエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、携えて行かなかったものである――(20節)

 エコヌヤはゼデキヤ王のことです。ゼデキヤ王の九年にエルサレムは、バビロンの王ネブカデネザルに包囲され、第十一年まで包囲されていたのです。城内の飢えのため、エルサレムの守りは崩壊し、王は夜のうちにアラバの方へ逃げようとしたのですがバビロン軍に捕えられます。目の前で子供たちを虐殺され、あげくに両目をつぶされ、青銅の足枷をつけられてバビロンに引かれていったのです。(U列王記25章1節〜7節)この時の、エルサレム神殿への破壊と略奪は徹底した者でした。(同13節〜17節)

 しかし、次の回復の預言もまた現実のものとなりました。(エズラ記1章7節〜11節)

 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、主の宮とユダの王の家とエルサレムとに残された器について、こう仰せられる。(21節)
 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある。――主の御告げ――そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる。』」(22節)







 

posted by さとうまさこ at 10:41| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする