2016年09月12日

エレミヤ書92 解放の宣言・「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ。」(エレミヤ書30章1節〜8節)



 主からエレミヤにあったみことばは、次のとおりである。(エレミヤ書30章1節)
 イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ。(2節)
 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(3節)

 これは、捕囚から帰還できるという神の宣言です。それをエレミヤの口から民に告げさせるだけでなく、書き記せとの御命令です。

 「書き記す」のは、確実性を保障していることでしょう。もちろん、神のことばに間違いはありえないのですが、それを聞く人間の側に記憶違いや解釈の違いが起きます。
 聖書の歴史で、「書き記された」物といえば、「十戒の石の板」が、まず、思い起こされます。シナイ契約に当たって、イスラエルの民が守るべきおきてを、神ご自身が書いて下さったのです。(出エジプト記32章18節)
 しかも、二回も書いて下さったのです。いかに書き記すことが重要だったかわかります。(同34章1節)

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 主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。(4節)
 まことに主はこう仰せられる。「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。(5節)
男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。
  わたしが見るのに、
  なぜ、男がみな、産婦のように
  腰に手を当てているのか。
  なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。(6節)
  ああ。
  その日は大いなる日、比べるものもない日だ。
  それはヤコブにも苦難の時だ。
  しかし彼はそれから救われる。(7節)

 これは捕囚の苦しみです。捕虜といえば、たとえば、第二次大戦中のシベリヤへの捕虜の苦しみなどが語られましたが、それでもまだ、近代の戦時捕虜には希望がありました。いつか帰国できるかもしれないからです。戦争終結の条約の中で、捕虜の処遇が語られ、開放されるに決まっているからです。しかし、捕囚は、兵士だけでなく、いわば敗戦国の住民すべてをとりこにすることです。子どもや年寄りや病人は除外されたかもしれませんが、それは幸いではなく、家族すべてが連れ去られるのに置き去りにされるのは、また、死を意味していました。
 まだ見ぬ地、敵の土地で暮すのは、今日の難民よりはるかに厳しいかもしれません。
 行く先々で、だれが彼らに食事を支給したのでしょう。疲れて横になりたい時、移動病院はあったのでしょうか。ことばは? 習慣は? 家族がバラバラにされたり、妻や娘が連れ去られそうなときはどうすればいいのでしょう。

 相続地にいるときは、いくらか苦労はあっても、男たちは家族や氏族、部族のきずなの中で生きているという実感もあったでしょう。けれども、捕囚では、どこに自分のアイデンティティを求めればよいのでしょう。

 だから、男たちも、女の産みの苦しみのように「声を上げ、みもだえした」のです。

 その日になると、――万軍の主の御告げ――わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。(8節)

 さいわい、その苦しみは「期間限定」なのだと、主は告げて下さるのです。
 万軍の主が、くびきを砕いて、縄も解いて下さるというのです。その後は、二度と捕囚生活、奴隷生活はないと宣告して下さるのです。







posted by さとうまさこ at 10:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする