2016年09月16日

エレミヤ書96 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ書31章20節〜34節)



  エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。
  それとも、喜びの子なのだろうか。
  わたしは彼のことを語るたびに、
  いつも必ず彼のことを思い出す。
  それゆえ、わたしのはらわたは
  彼のためにわななき、
  わたしは彼をあわれまずにはいられない。
  ――主の御告げ――(エレミヤ書31章20節)
  あなたは自分のために標柱を立て、
  道しるべを置き、
  あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。
  おとめイスラエルよ。帰れ。
  これら、あなたの町々に帰れ。(21節)
  裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。
  主は、この国に、一つの新しい事を創造される。
  ひとりの女がひとりの男を抱こう。」(22節)

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 クリスチャンになってから時間が経っていても、熱心なクリスチャンであるように見えても、「おびえている」人を見ることがあります。傷ついたことが一番大きな関心事のようで、一向に傷から立ち直っていないかのように見える人があります。
 みことばさえ、鞭になっている人がいます。「地の塩、世の光」の塩が傷口にすり込まれているかのように気むずかしかったり、「強い光」の前にすくんでしまったりしているクリスチャンがいらっしゃるのです。

 ある姉妹は、お証しの中で、「神は厳しく罰する方なので」と言いました。もちろん、それは一面真実でしょう。クリスチャンファミリーに育ち、ずっと教会につながれ信仰を保ち、よき奥さんであり母である彼女が、旧約聖書のイスラエルの民と同じような扱いを、神様から受けるかも知れないと「反省」しているのです。それは、彼女があまりにも忙しくして、病気になってしまった結果なのです。
 同様の「悔い改め」をしばしば耳にするので、私は、「私たちの神、キリストとなって世に来てくださった神」は、それほど厳しい、もっと言えば意地悪な方でしょうかと、思うほどです。

 病気はだれでもなりますし、それどころか、回復しない病気もあるわけです。死は避けられず、それは、100歳まで生きても120歳まで生きても同じでしょう。それがもし、罰だというなら、それは、「楽園追放」そのものが罰だからその通りでしょう。園の中央にあった「いのちの木」から取って食べられなくなったので、人間は死ぬ者となったのです。
 けれども、楽園から追放した人間をご覧になって、神様は「高笑い」をしておられたでしょうか。神様は怒りながら、悲しまれ、それでも、罪によって隔てられた人間の行く末を案じ、その一挙手一頭足(いっきょしゅいっとうそく)までご覧になっていたのは、カインに対する切実な忠告や、赦しや、特例措置を見るだけで明らかです。
 人を造ったことを後悔し、すべてを滅ぼそうと決意なさったのに、ノアとその家族は、箱舟に避難させたのです。
 イスラエルの民に、出エジプトも果たさせ、荒野の40年も達成させ、カナンにも入れて下さったのです。

 たとえば、出エジプト記の話を見ても、これは、追いかけてくる巨大台風と必死で戦いながら、何とか雨風を振り切って陸地を見つけた「偉大な」人間の「航海の話」ではないはずです。罰は、神のお示しになる航路を、信頼しきって歩もうとせず、すぐに「落ち込んだり」「わめいたり」「自分勝手な進路に進んだり」する者にたいする神の「警告」であるのは、全体を読めば明らかです。

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 王国の時代の叛きは、神からご覧になると「許しがたい」ものだったでしょう。エルサレム神殿を建てたソロモン自身が、イスラエル王国の分裂を招いたのですから、人が神の前に完全であることの難しさは、明らかです。
 イスラエル王国は、けっきょく滅びました。民は他国に連れ去られ、神殿は破壊されました。まさに、根こそぎ「命を絶たれる」ほどの、試練にあったのです。
 その時に、神は真実の預言者エレミヤを召されるのです。

 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
 「わたしが彼らの捕われ人を帰らせるとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』(23節)
 ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。(24節)
 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。(25節)
 ――ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった――(26節)
 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。(27節)
 かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ――(28節)
 その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。(29節)
 人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。(30節)

 ここで、「自分の咎」と言われているのは、かなり根源的な罪ではないでしょうか。
 知恵の実を食べたために、私たちは死ぬことになったのです。

 その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。(創世記3章6節)

 この実の味は「酸いぶどうの味」だったのでしょう。

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 にもかかわらず、「回復して下さる」との約束が預言されています。

 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(31節)
 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

 「新しい契約」は、出エジプトの時の契約とはまた違うのです。
 古い契約は、民の方から破ってしまったのです。神殿も律法もずたずたになってこわれてしまったのです。

 わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ――(32節)
 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ――わたしはわたしの律法を 彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(33節)

 新しい契約が結ばれるのです。その律法は、それぞれの人の心の中に置かれるのです。

 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(34節)

 このようなことができるのは、神ご自身が人の罪を贖って下さるからです。キリストが罪を負って死んで下さる故です。

 救い主が来られた後の時代、キリストを信じている私たちが、必要以上に神の罰を恐れ、自分でつけた傷口すら神による罰であるかのようにおびえるのを、神様はお喜びになるでしょうか。それは、謙遜な態度なのでしょうか。
 





posted by さとうまさこ at 11:37| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする