2016年09月17日

エレミヤ書97 もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、(エレミヤ書31章35節〜40節)



  主はこう仰せられる。
  主は太陽を与えて昼間の光とし、
  月と星を定めて夜の光とし、
  海をかき立てて波を騒がせる方、
  その名は万軍の主。(エレミヤ書31章35節)

 昨夜、NHKのEテレで、モーガン・フリーマンの「時空を超えて――太陽のない世界、人類は生存可能か」を放映していた。
 宇宙のお話は面白いと思うけれど、これが太陽系を超えて、また、私たちが見ている物理的サイズより小さい素粒子だとか、ブラックホールだとか、またまた、太陽が消滅する100億年(?)後の話となると、正直、私の理解を超えるのです。

 もちろん、私も頭の中では、いつか、100億年後が来ると信じているようです。太陽が消滅する日については、小学生でも教えられるのです。太陽が無くなったら、地球も「死の世界」になると、耳がタコになるほど教えられました。その前に、移住先を探して、そのために、宇宙探査船を飛ばして、月に行ったり、火星や木星の写真を撮ったり、何処かに文明をもった星はないかと、日夜天体を観測していたり・・・、そのような宇宙事業に、ものすごいお金と頭脳が使われていることも、何となく「知っている」のです。

 私が小学生の頃、先生が教室で語ったものです。
 「君たちが大きくなって結婚するころには、月への新婚旅行ができるかもしれないよ」
 少なくとも、私にとっては「自分の足で踏みしめられる月」は、さほど魅力的ではなかったのです。かぐや姫の話を信じられる方が良かったからです。じっさいには、月に行ったのはアメリカの数人の宇宙飛行士だけで、今もって、宇宙旅行は、一般人には夢の夢です。幸いなことに!!

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 このような「科学番組」はもちろん、面白いのです。もう少し私に知識があれば、きっともっとよく理解できたでしょう。ただ、知識がなくても、わかることがあります。
 「こうやって、ああやって、ブラックホールを作って、そこを通りぬけて」と、時空を語るのは良いのですが、しかし、それは100億年後かそれ相応の途方もない歴史の果てに、考えられるかもしれないことです。

 前提は、この宇宙を人類は、「自由自在に操れる」という発想です。
 宇宙が生まれた時、私たちはそれを知らなかったのです。今でも、宇宙創成には多くの説があり、じつは、日々、「発展?」しているのです。
 「私たちは、どこから来てどこに行くのか」は、私にとってだけでなく、すべての人にとって永遠の問いではないでしょうか。
 自分が、頭で考えれば、「実現できる」という楽観性は、悪いことだとは思えませんが、それにしても、そこには、大きな力にたいする、そもそも存在に対する「畏れ」がないのだなあ、と思わせられるのです。

 ヨブ記の中のことばを、何となく思い出しました。

  わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
  わたしが地の基(もとい)を定めたとき、
  あなたはどこにいたのか。
  あなたは悟ることができるなら、告げてみよ。
  あなたは知っているか。
  だれがその大きさを定め、
  だれが測りなわをその上に張ったかを、   (ヨブ記38章3節〜5節)

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  「もし、これらの定めがわたしの前から
  取り去られるなら、――主の御告げ――
  イスラエルの子孫も、絶え、
  いつまでもわたしの前で、
  一つの民をなすことはできない。」(エレミヤ書31章36節)
  主はこう仰せられる。
  「もし、上の天が測られ、
  下の地の基が探り出されるなら、
  わたしも、イスラエルのすべての子孫を、
  彼らの行なったすべての事のために退けよう。
  ――主の御告げ――(37節)

 見よ。その日が来る。――主の御告げ――その日、この町は、ハナヌエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。(38節)
測りなわは、さらにそれよりガレブの丘に伸び、ゴアのほうに向かう。(39節)
 死体と灰との谷全体、キデロン川と東の方、馬の門の隅までの畑は、みな主に聖別され、もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない。」(40節)

 見よ。その日が来る。ということばは、強烈なインパクトがありますね。
 これを聞いた捕囚の民はみな、耳鳴りがしたことでしょう。






posted by さとうまさこ at 12:20| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする