2016年09月20日

エレミヤ書100 わたしを呼べ(エレミヤ書33章1節〜3節、詩編50篇15節)



 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。(エレミヤ書33章1節)
「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。(2節)

 おじさんの土地を買い戻せとの、主の御命令に対し、エレミヤは納得できない気持ちでいます。そこで主は、仰せになります。

 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(3節)

 「わたしを呼べ」とのみことばに接して、じつは私自身がとても「救われた」気持になっています。
 エレミヤの置かれた苦難に較べれば、私の今いる世界の困難は、なにほどのこともないかもしれません。若いエレミヤが預言者という厳しい召しを受けて、牢獄に入れられても神のことばを取り次いでいる――。それに比べたら、いったい自分は、神様のために何ができているのだろうかと思わせられます。
 しかし、行き詰まりを感じるときがあり、すべてを失って捕囚に連れ去られるしかないと、前途を悲観しそうになることもあるのです。

 ところが、神は告げられるのです。「わたしを呼べ」。ああ、そうだった。呼べば答えて下さる神様だったのに・・・と、目を上げるのです。

★★★★★

   「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
   わたしはあなたを助け出そう。
   あなたは私をあがめよう。」(詩篇50篇15節)

 この有名な聖句を、ある牧師がお証ししていました。
 牧師のお父さんは、遠洋航路の貨物船の船長さんでした。律儀な愛国者で、息子さんがクリスチャンになったことで、とても怒っていました。牧師は(当時、牧師だったかどうかはわかりませんが)、何とかお父さんにわかってもらおうと、いつもいっしょけんめいイエス様のことを説明していましたが、頑固なお父さんは受け付けません。

 お父さんが遠洋航海に出るとき、牧師は波止場にお父さんを見送りに行きました。
 あまりしゃべってもらえそうにないとわかっていたので、聖書を渡し、その中の詩篇50篇15節のページにしおりを挟んで、15節はしっかりマークを付けておきました。
 「お父さん。もしも、困ったことが起ったら、ここを開けて見てください。」
 ともかく、お父さんは聖書を受け取ってくれました。

 ところが、船がニューヨークの港を目前にして、とつぜんエンジンが故障をして動かなくなりました。機関士や船員が原因をさがしましたが、わかりません。

 船は洋上で一日、二日、三日と立往生してしまいました。船長であるお父さんは、本国の会社から、毎日のように催促の電報を受け取りました。
「まだか。まだか」というわけです。
 積荷は、商品です。到着が遅れるとそれだけ船会社が弁償しなければならなかったのです。
 船長であるお父さんはもちろん、事態の深刻さをよくわかっていました。必死であれこれ修理をしてみるのです。

 その時、ふとお父さんは、息子が聖書をくれるときに言った言葉を思い出しました。
「困った時には、見てほしいと言っていたな。」
 開いてみると、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と書いてあります。
 お父さんは、一心に、お祈りを始めました。

 ほどなく、船員が船長のもとに走ってきました。
「船長。エンジンが動き出しました!」

 お父さんはその後、すぐクリスチャンになり、亡くなるまでしっかりしたクリスチャンとして過ごしました。
 
 年配の牧師のお名前を覚えていないのですが、当時九州で牧会をしておられるようでした。テレビ局は、韓国のCGNTVでした。
「わたしを呼び求めよ」との言葉を聞くたびに、そのお証しを思い出します。 





posted by さとうまさこ at 11:12| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする