2016年10月16日

エレミヤ書125 自分の神を捨てる人々(エレミヤ書44章15章〜25節)



 すると、自分たちの妻がほかの神々に香をたいていることを知っているすべての男たちと、大集団をなしてそばに立っているすべての女たち、すなわち、エジプトの国とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えて言った。(エレミヤ書44章15節)
 「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。(16節)
 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行なって、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムのちまたで行なっていたように、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。(17節)
 私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた。」(18節)
 「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか。」(19節)

 エレミヤの警告には、民から驚くべき反応が返ってきました。何と、民は「エレミヤのことがは聞けない!」と言ったのです。
 じつのところ、偶像礼拝に熱心だったのは、夫より妻の方だったらしいのですが、夫が妻の気持ちを代弁するのです。まあ、男の権威の方が上だった社会ですから、夫が代理で答弁するのは仕方がないかもしれません。しかし、口に出した言葉には責任があります。妻の偶像礼拝を認めて来ただけでなく、共に偶像礼拝をしてきたのだと告白しているのと同じです。しかも、その理由が驚きです。

 「天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽き足り、しあわせでわざわいに会わなかったから。」
 私たちが天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた。」(18節)

 ユダの滅亡という不幸は、自分たちが「天の女王にいけにえをささげ、そそぎのぶどう酒を注ぐのを止めた時からだ」と、ヨシヤなどの宗教改革さえ非難しているのです。
 男たちのうしろから、女たちが言いつのります。

 「私たち女が、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、私たちの夫と相談せずにしたことでしょうか。」(19節)

 妻たちが、自分たちは夫唱婦随で、天の女王を礼拝していた。と胸を張るのです。

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 そこでエレミヤは、男女のすべての民と、彼に口答えしたすべての民に語って言った。(20節)
 「ユダの町々やエルサレムのちまたで、あなたがたや、あなたがたの先祖や、王たちや、首長たち、それに一般の人々がいけにえをささげたことを主は覚え、心に思い浮かべられたのではないか。(21節)
 主は、あなたがたの悪い行ない、あなたがたが行なったあの忌みきらうべきことのために、もう耐えられず、それであなたがたの国は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖、ののしりとなった。(22節)
 あなたがたがいけにえをささげ、主に罪を犯して、主の御声に聞き従わず、主の律法と定めとあかしに歩まなかったために、あなたがたに、このわざわいが今日のように来たのだ。」(23節)

 もちろん、エレミヤは彼らの間違いを咎めます。偶像礼拝をし、主に罪を犯したことで、その結果多くのわざわいがやってきたのだではないか。
 
 ついで、エレミヤは、すべての民、すべての女に言った。「エジプトの国にいるすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。(24節)
 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束したことをその手で果たせ。あなたがたは、私たちは天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ごうと誓った誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かに果たし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』(25節)

 さすがに、万軍の主は激怒しておられるのですが、それは「切れる」と言ってもいいような突き放した怒りです。「それほど、天の女王に礼拝したければそうせよ。その請願を必ず実行せよ。」
 私たちのような人間でも意見が対立したときに、「じゃあ、好きなようにするがよい」と言われたら、決裂を意味するのです。家出をする子供に親が、「それほど行きたいなら行け。二度と戻って来るな」というのと同じです。
 それだけではないですね。その結果、どうなるかまで、宣言しておられるのです。






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2016年10月17日

エレミヤ書126 新約の時代の神の御命令(エレミヤ書44章26章〜29節)



 それゆえ、エジプトの国に住むすべてのユダの人々。主のことばを聞け。『見よ。わたしはわたしの偉大な名によって誓う。――主は仰せられる――エジプトの全土において、神である主は生きておられると言って、わたしの名がユダヤ人の口にとなえられることはもうなくなる。(エレミヤ書44章26節)
 見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。(27節)
 剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。(28節)
 これがあなたがたへのしるしである。――主の御告げ――わたしはこの所であなたがたを罰する。それは、あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばは必ず成就することをあなたがたが知るためである。』(29節)

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 エレミヤ書は、さとうにとってかなり険しい坂道です。エレミヤとユダの人々の対立は、文字通り神の御心と人間の罪との対立です。これは、もちろん、神様が正しくて、人間が間違っているのです。神は意味なくお怒りになったり、罰をお与えになるはずはないのだからと、わかっています。もし、「神は絶対善、正しい方は神おひとり」というのでなければ、聖書を読む意味がなくなってしまいます。キリスト教の義の前提は失われてしまいます。

 この神様に選んでいただいたイスラエル人は、神様の御心に沿えなくて、エジプトから連れ出していただいた直後から、「自己中心」に叫んだり、ごねたりしています。でも、シナイ契約までは神様もそのたびに、民の叫びを聞き、超自然的な奇蹟を見せて下さり、再び奴隷に戻ることがないよう導いて下さるのです。やっとシナイに着いて契約と十戒をいただいてからのイスラエルは、神と契約していただいたことに、自覚を持つべきでした。事実、神の民としての自覚をもったからこそ、モーセに協力して幕屋を作り、祭司制度を守り、律法やおきてに従って、イスラエル社会を形成し、十二部族が秩序をもって、荒野に出て行ったのです。

 カナン入りして、いろいろな時代を戦って、あげくに神に願って王制の国家を建てていただき、神の民イスラエルとして成熟して行かなければいけないところで、王国分裂。偶像礼拝、さまざまな堕落…。つぎつぎと神が預言者を送って来られても、状況は悪くなる一方・・・。
 まず、北イスラエルが崩壊し、それを見ていながら、南ユダは同じ轍を踏んでいく。
 
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 エレミヤ書に出てくるユダの人々の愚かさを、私も神様の側に立って、ユダの人々にあきれ、また腹を立てているのです。ですが、自分がもしあの時のユダの民なら、同じような間違いを犯さないと言い切れないと思うのです。

 いまは一応クリスチャンになってイエスさまを信じ、自分の十字架を背負ってイエス様の後に従いたいと思ってはいます。しかし、神様を信じることが現実のさまざまな場面にどう適用されるのかとなると、神の御心に従えているかは危うい時もあります。
 旧約時代のイスラエル人と違って、私たちにとって、神の御心を行なうという、その中身ははっきりしていると思います。
 私たちが命じられていることは、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」です。(マタイの福音書28章19節、マルコの福音書16章15節)
 それは、いわゆる牧師や伝道師にだけ言われていることではないと、気づかされるのです。
 すでに、救い主がお出でになって救いを完成させて下さったのだということを、私も、しっかり伝道しなければならないのではないか。それは、任務ではなくて、すべての人に命じられていることではないかしらと思うとき、改めて自分の立ち位置を振り返らされます。






 

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2016年10月18日

エレミヤ書127 預言者の同労者バルクの問題(エレミヤ書45章1節〜5節)



 ネリヤの子バルクが、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときに、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。(エレミヤ書45章1節)
「バルクよ。イスラエルの神、主は、あなたについてこう仰せられる。(2節)
あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』(3節)

 この箇所は、エレミヤ書36章の記述に基づいています。

 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、主からエレミヤに次のようなみことばがあった。
 あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしはイスラエルとユダのすべての国々について、あなたに語ったことばをみなそれに書きしるせ。(エレミヤ書36章1節2節)。

 この時、エレミヤは監視の庭に閉じこめられていました。そこで、バルクはエレミヤの預言を記した巻き物をもって、主のことばを民の耳に聞かせることになるのです。
 神のことばを聞きたくない民は、バルクにつらく当たったのでしょう。
 バルクは、書記官としてエレミヤの預言活動を支えた人物。王家に近い名門の出身だと推測される(新実用聖書注解・いのちのことば社)。また、社会から相当評価を受けていた人物なのです。それだけに、あまりに迫害が厳しい時、エレミヤの同労者でいるよりは、世俗の社会で生きることを願ったとも考えられています。

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 バルクの迷いや煩悶は、当然神はご存知で、すぐにエレミヤにことばを授けられたのです。

 あなたが主にこう言うので、主はこう仰せられる。『見よ。わたしは自分が建てた物を自分でこわし、わたしが植えた物を自分で引き抜く。この全土をそうする。(4節)
 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。――主の御告げ――しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。』」(5節)

 神は、俗世間で栄達の道を望むバルクに警告されます。
 神は、ユダ王国そのものを根こそぎにされようとしているのです。だから、そんなところで「大きなものを求めても無駄だ」と仰せなのです。

 たしかに預言者の同労者であることは苦しいことなのですね。これは、今日でも同じかもしれません。牧師だけでなく宣教活動を支えるために働いている人たちも、社会から非難されたり、色々な犠牲を払うことに疲れてしまうことがあるのではないでしょうか。
 それだけに、神は、労苦しているバルクに、一番大切なものを約束して下さっています。それは、いのちです。

イエス様も、仰せです。

 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。(マルコの福音書8章36節)






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2016年10月19日

エレミヤ書128 諸国の民への預言――エジプト(エレミヤ書46章1節〜5節)



 エレミヤのユダ王国とユダの民への預言は、45章までで終わりました。45章は、エレミヤの書記であったバルクに対して、神がとくべつに言葉をお与えになったのですから、ユダの国への預言は、44章までだったといえるでしょう。
 46章から51章までは、諸国民への預言となっています。

 諸国の民について、預言者エレミヤにあった主のことば。(エレミヤ書46章1節)

 諸国の民とは、エジプト、ペリシテ人、モアブ、アモン人、エドム、ダマスコ、ケダルとハツォル、バビロンなどが含まれる。(新実用聖書注解・聖書注解P1064)

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 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王パロ・ネコの軍勢について。ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカデレザルはこれを打ち破った。(2節)

 そっけないほどの記述ですが、これはユダにとっても、中東の歴史にとっても、じつに大きな出来事でした。
 ユダの王エホヤキムの第四年は、バビロン捕囚の時代背景を理解するための「大きなエポックメーキングの年」です。

 この四年前、BC609年にヨシヤはメキドでエジプト軍と戦って重傷を負い、エルサレムまで運ばれて死にます。ヨシヤの後継者エホアハズは、エジプト軍に捕まってエジプトに連れ去られます。その在位は3か月でした。そのあと、エジプトは、エホアハズの兄弟エホヤキムを即位させるのです。
 このめまぐるしい政変の背景には、新興勢力バビロンの台頭、アッシリヤの滅亡があります。(BC610年) 

 バビロンとメディヤの連合軍に攻められ、危機にあったアッシリヤは、同盟国エジプトの援護を求め、エジプト王ネコは、バビロンと戦うためにユダを通り抜けようと通告したのです。ここでなぜか、ヨシヤは直接は敵でもないパロ・ネコの軍を迎え撃つのです。

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 エジプトの援護にもかかわらず、アッシリヤは滅びます。
 BC605年、パロ・ネコの軍は、カルケミシュでバビロンのネブカデレザルに大敗し、エジプトに撤退するのです。
 エジプトの脅威は去るのですが、代わりにバビロンがユダに迫ってきます。ユダ王国崩壊の幕が上がったのです。
 エホヤキムは同BC605年、バビロンに反逆します。第一回捕囚があり、続いて即位したエホヤキンの時代には、大規模な人数がバビロン捕囚として連れ去られます。
 エレミヤは、とりわけ、このBC605年から何度も預言をしています。

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 エレミヤは、すでに帰国し、とどまっているエジプトに対し、預言をしています。

  「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。(3節)
  騎兵よ。馬に鞍をつけて乗れ。
  かぶとを着けて部署につけ。
  槍をみがき、よろいを着よ。(4節)
  何ということか、この有様。
  彼らはおののき、うしろに退く。
  勇士たちは打たれ、
  うしろも振り向かずに逃げ去った。
  恐れが回りにある。――主の御告げ――(5節)

 なんと、エレミヤはエジプトに戦いをけしかけているのです。その相手はバビロン軍です。これはどうしてなのでしょうか。






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2016年10月20日

エレミヤ書129 エジプトの敗北の意味するもの(エレミヤ書46章6節〜12節)



 エジプトは当時、大国でした。王朝は何度も変わっていますが、豊かな土地とナイル川をもつエジプトが、イスラエルにどれほどの影響を与えたかは、聖書読者なら周知の事実です。エジプトは飢饉に直面したイスラエル一族を受け入れ、養ったのです。70人ほどのアブラハムの孫ヤコブの一族がエジプトで増え広がったのです。最後は、エジプトにとっても脅威と思われるほどの生命力をもったイスラエルのために、エジプトは、いわば苗床となってくれたのです。

 モーセは、シナイの荒野で、「ふたたびエジプトに戻ってはならない」(申命記17章16節)と戒めていますが、エルサレムからでも、300キロほどしかないエジプトとの交易や交流を絶つことは不可能だったでしょう。
 ソロモンはエジプトから妻を迎えていますし、(T列王記9章16節、11章1節)北イスラエル王国を立てたヤロブアムは、預言者アヒヤからイスラエル十部族の王になるとの預言を受けソロモンからいのちを狙われることになった時、エジプトに亡命しました。(T列王記11章40節)
 同時に、エジプトは偶像礼拝の温床でした。宗教改革を行なった王ヨシヤが、北上してきたパロ・ネコの軍を迎え撃ったのは理由のあることでした。残念ながらエジプトの軍は強大で、ヨシヤは戦死してしまうのです。ヨシヤには勝ったパロ・ネコも、BC605年、カルケミシュでバビロンに大敗し、国へ逃げ帰ってしまうのです。

 次のことばは、エジプトがバビロンに敗走する時の様子が述べられているのでしょう。

  足の速い者も逃げることができない。
  勇士たちものがれることができない。
  北のほう、ユーフラテス川のほとりで、
  彼らはつまずき倒れた。(エレミヤ書46章6節)
  ナイル川のようにわき上がり、
  川々のように寄せては返すこの者はだれか。(7節)
  エジプトだ。――ナイル川のようにわき上がり、
  川々のように寄せては返す。
  彼は言った。『わき上がって地をおおい、
  町も住民も滅ぼしてしまおう。』(8節)
  馬よ、上れ。戦車よ、走れ。
  勇士たちよ、出陣だ。
  盾を取るクシュ人、プテ人、
  弓を引き張るルデ人よ。(9章)

 クシュ人やプテ人は、エジプトが雇った外国兵です。多くのプロの戦士を擁しているエジプト軍は、大軍で強かったのです。ところが、605年8月カルケミシュで奇襲を仕掛けてきたバビロン軍に大敗し、エジプトに退却した(バイブルワールド・いのちのことば社)のです。
 それは、軍の強さや戦略の問題ではなく、「神のさばき」だったのです。
 万軍の主が、復讐して下さったのです。さとうは、個人的には、ヨシヤの戦死に対する復讐だと思いたいのですが。

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  その日は、万軍の神、主の日、
  仇に復讐する復讐の日。
  剣は食らって飽き、彼らの血に酔う。
  北の地、ユーフラテス川のほとりでは、
  万軍の神、主に、いけにえがささげられる。(10節)
  おとめエジプトの娘よ。
  ギルアデに上って乳香を取れ。
  多くの薬を使ってもむなしい。
  あなたはいやされない。(11節)
  国々は、あなたの恥を聞いた。
  あなたの哀れな叫び声は地に満ちた。
  勇士は勇士につまずき、共に倒れたからだ。」(12節)

 乳香は、薬にの使われました。エジプトの損失の大きさ、傷の大きさは、上等の薬をたくさん使っても癒されることがないというのです。







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