2016年10月03日

エレミヤ書112 神の言葉に従うということ(エレミヤ書37章17節〜21節)



 私たちの教会では、もうクリスマスの準備が始まっています。ここ数年、さとうはクリスマス劇の台本に関わらせていただいています。テーマは四年連続で降誕劇になっています。聖書からの劇は、すべて自分の独創でもなく、すでに神様がお書きになった聖書に埋め込まれた物語から書くのです。さらに劇は演出や役者とともに作り上げていく過程が、大きなウエイトを占めています。ある意味で、そんなに自分が気負う必要もないのです。

 とはいえ、同じ降誕劇を毎年少しずつ場面や演出を変えて出しながら、改めて聖書を読み足りないことに気が付きました。
 イエス様がお生れになった時、赤子の救い主を訪問するのは、羊飼いと博士たちです。産屋になった家畜小屋にいるのは、マリヤ、ヨセフ、羊飼い、博士となるでしょう。イエス様懐妊の場面にまで遡れば、バプテスマのヨハネの母エリザベツも「証人」だと言えます。
 しかし、一番大切なものを見過ごしていました。

 それは、神様の意思です。神様が、なんとしても救い主を送って来られようと決めておられ、「その時」に至って、御子を下されたのです。
 
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マリヤの懐妊について、神様はヨセフとマリヤに御使いを送って、それが、しっかりと神様の意思によるもの(聖霊によると)であると伝えておられます。それに対し、多少の驚きはあるもののマリヤもヨセフも、救い主の両親の役割を引き受けるのです。

 聖書では、神の御計画は、いつも必要な人に伝えられてきたと思います。アブラハム、イサク、ヤコブへの明快な言葉とお約束。モーセを召された時の、ほとんど強引とも思える(人間側からみると)話しかけ。ヨシュアや士師期の時代のリーダーたちへの特別な語りかけ。サムエルもサウルもダビデも主が召し出されたのです。

 王国時代に至っては、神の預言を受けるだけの多くの預言者が輩出し、彼らは神の授けられたことばのために、ときに身の危険にさらされても預言を語るのです。
 偽預言者が偽(にせ)であるのは、そもそも神が彼らに語っておられないということでしょう。召されもしないのに召されたと自称する者がいる一方、真実な預言者は神に従ったのかと思います。

 マリヤとヨセフに「主の使いが」現れました。およそ主の御告げを聞くことができる者なら、それがどれほど重いことかと改めて考えるのです。たとえ、羊飼いでも同じです。神は教育レベルや社会的立場で人をお選びになるとは限らないのだと言われています。
 そのようなわけで、家畜小屋にきた人たちは、神様の御告げによって集められた人たちです。東の国の博士が星によって知らされたというのも同じ意味です。

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ゼデキヤ王は人をやって彼を召し寄せた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った。「主から、みことばがあったか。」エレミヤは、「ありました。」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」と言った。(エレミヤ書37章17節)
エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。(18節)
あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない。』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。(19節)
今、王さま、どうぞ聞いてください。どうぞ、私の願いを御前にかなえて、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。そうすれば、私はあそこで死ぬことはないでしょう。」(22節)
そこでゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、町からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から、毎日パン一個を彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。(21節)

 いま、エレミヤ書を読み進めながら、滅びを目前にしたユダ王国の王や首長たちの信仰と、救い主が来られた紀元前後のユダの人たちの信仰を、思わず比べてみたのです。







posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする