2016年10月17日

エレミヤ書126 新約の時代の神の御命令(エレミヤ書44章26章〜29節)



 それゆえ、エジプトの国に住むすべてのユダの人々。主のことばを聞け。『見よ。わたしはわたしの偉大な名によって誓う。――主は仰せられる――エジプトの全土において、神である主は生きておられると言って、わたしの名がユダヤ人の口にとなえられることはもうなくなる。(エレミヤ書44章26節)
 見よ。わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの国にいるすべてのユダヤ人は、剣とききんによって、ついには滅び絶える。(27節)
 剣をのがれる少数の者だけが、エジプトの国からユダの国に帰る。こうして、エジプトの国に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのと彼らのと、どちらのことばが成就するかを知る。(28節)
 これがあなたがたへのしるしである。――主の御告げ――わたしはこの所であなたがたを罰する。それは、あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばは必ず成就することをあなたがたが知るためである。』(29節)

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 エレミヤ書は、さとうにとってかなり険しい坂道です。エレミヤとユダの人々の対立は、文字通り神の御心と人間の罪との対立です。これは、もちろん、神様が正しくて、人間が間違っているのです。神は意味なくお怒りになったり、罰をお与えになるはずはないのだからと、わかっています。もし、「神は絶対善、正しい方は神おひとり」というのでなければ、聖書を読む意味がなくなってしまいます。キリスト教の義の前提は失われてしまいます。

 この神様に選んでいただいたイスラエル人は、神様の御心に沿えなくて、エジプトから連れ出していただいた直後から、「自己中心」に叫んだり、ごねたりしています。でも、シナイ契約までは神様もそのたびに、民の叫びを聞き、超自然的な奇蹟を見せて下さり、再び奴隷に戻ることがないよう導いて下さるのです。やっとシナイに着いて契約と十戒をいただいてからのイスラエルは、神と契約していただいたことに、自覚を持つべきでした。事実、神の民としての自覚をもったからこそ、モーセに協力して幕屋を作り、祭司制度を守り、律法やおきてに従って、イスラエル社会を形成し、十二部族が秩序をもって、荒野に出て行ったのです。

 カナン入りして、いろいろな時代を戦って、あげくに神に願って王制の国家を建てていただき、神の民イスラエルとして成熟して行かなければいけないところで、王国分裂。偶像礼拝、さまざまな堕落…。つぎつぎと神が預言者を送って来られても、状況は悪くなる一方・・・。
 まず、北イスラエルが崩壊し、それを見ていながら、南ユダは同じ轍を踏んでいく。
 
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 エレミヤ書に出てくるユダの人々の愚かさを、私も神様の側に立って、ユダの人々にあきれ、また腹を立てているのです。ですが、自分がもしあの時のユダの民なら、同じような間違いを犯さないと言い切れないと思うのです。

 いまは一応クリスチャンになってイエスさまを信じ、自分の十字架を背負ってイエス様の後に従いたいと思ってはいます。しかし、神様を信じることが現実のさまざまな場面にどう適用されるのかとなると、神の御心に従えているかは危うい時もあります。
 旧約時代のイスラエル人と違って、私たちにとって、神の御心を行なうという、その中身ははっきりしていると思います。
 私たちが命じられていることは、「全世界に出て行って福音を宣べ伝えなさい」です。(マタイの福音書28章19節、マルコの福音書16章15節)
 それは、いわゆる牧師や伝道師にだけ言われていることではないと、気づかされるのです。
 すでに、救い主がお出でになって救いを完成させて下さったのだということを、私も、しっかり伝道しなければならないのではないか。それは、任務ではなくて、すべての人に命じられていることではないかしらと思うとき、改めて自分の立ち位置を振り返らされます。






 

posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする