2016年10月26日

エレミヤ書135  モアブの敗戦――神の審判(エレミヤ書48章32節〜38節)  モアブの敗戦――神の審判(エレミヤ書48章32節〜38節)



  シブマのぶどうの木よ。
  ヤゼルの涙にまさって、私はおまえのために泣く。
  おまえのつるは伸びて海を越えた。
  ヤゼルの海に達した。
  おまえの夏のくだものとぶどうの取り入れを、
  荒らす者が襲った。(エレミヤ書48章32節)

 シブマはヘシュボンの北西4キロほどの所にあった町で、良質のぶどうの山地として有名だった。(新実用聖書注解・いのちのことば社p1069)
 ヤゼルはヨルダン川の東20キロ、ヘシュボンの北西28キロの地点にある町、のちにガド族の相続地になった。(新聖書辞典・いのちのことば社)
 シブマもヤゼルも良質のぶどうの産地――ぶどう酒の産地だったのです。この時代のカナンの民にとっては、主要な7つの産物、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ、ナツメヤシは、七つの祝福とされ、これらが主産物であったのはモアブも同様だったでしょう。
 侵略軍がきて、ぶどうと果物を略奪することは、生活を根幹からゆるがしてしまう。

  「モアブの果樹園とその国から、
  喜びと楽しみは取り去られ、
  私は酒ぶねから酒を絶やした。
  喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、
  ぶどう踏みの喜びの声は、
  もう喜びの声ではない。」(33節)
  ヘシュボンが叫んだため、その声はエルアレとヤハツまで、ツォアルからホロナイムやエグラテ・シェリ  シヤまで届いた。ニムリムの水さえ、荒廃した地となるからだ。(34節)
 
 戦争は、スポーツではありません。力づくの戦いにルールはなく、主導権は力のある側が握っていて、文字通り「煮るのも焼くのも」勝者の胸一つです。レフリーはいません。
 負け戦は、人のいのちだけでなく、産業を徹底的に潰してかかるのです。
 台風で、果樹園のりんごが落ちている様子を見ると、生産する人たちがどれほど気落ちしているかがわかります。敵の軍隊が果樹やぶどうを踏みにじって行くとき、民は命を奪われているのと同じです。

★★★★★

 前段で、レフリーはいないと書きましたが、エレミヤが預言しているこれらの戦いには、じつは、レフリーはいます。ヤーウェと呼ばれる聖書の神様です。天地万物を創造され、すべての生き物と人間を創造され、神を離れて迷い出ている人間をふたたび御許に連れ戻そうといつも気にかけて下さっている神が、これらの戦いを起こされているのです。
 神はまた、イスラエルを用いてご自分を顕しておられるのですが、人間は、神の苦心惨憺の愛になかなか応えることができません。神の民と言われるイスラエルでさえそうなのですから、まして、エジプトやモアブが「神の御心」がわからないのは、当然かもしれないのです。それでも、神がバビロンを用いて、これらイスラエルの周辺国を罰しておられるのは、偶像を拝む彼らがしばしばイスラエルに偶像を持ち込んできたからです。また、子どもを祭壇で焼くなどといった忌むべき風習にも染まっています。神は、エジプトやモアブから、間違った神々を取り除く必要もあったと思われます。

 「またわたしは、モアブの、――主の御告げ――高き所でいけにえをささげ、その神々に香をたく者を取り除く。」(35節)
 それゆえ、私の心はモアブのために笛のように鳴り、私の心はキル・ヘレスの人々のために笛のように鳴る。彼らの得た富も消えうせたからだ。(36節)

 敵の前に敗走し、自分たちの神も取り除かれたモアブの人々は、葬式のように、頭の毛をそり、ひげもそり、からだに傷をつけ、悲しんでいるのです。

 彼らは頭の毛をみなそり、ひげもみな切り取り、手にもみな傷をつけ、腰に荒布を着けているからだ。(37節)
 モアブのすべての屋根の上や、広場には、ただ嘆きだけがある。「わたしがモアブを、だれにも喜ばれない器のように、砕いたからだ。――主の御告げ――」(38節)









posted by さとうまさこ at 04:00| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする