2016年11月01日

エレミヤ書141 ダマスコへの審判(エレミヤ49章12節〜22節)



  ダマスコについて。
  「ハマテとアルパデは恥を見た。
  悪い知らせを聞いたからだ。
  彼らは海のように震えおののいて恐れ、
  静まることもできない。(エレミヤ書49章23節)
  ダマスコは弱り、恐怖に捕われ、
  身を巡らして逃げた。
  産婦のような苦しみと苦痛に捕えられて。(24節)

 ダマスコは、どことなく郷愁を誘う地名です。聖書の文書を感傷的に読むべきではないかもしれなせん。けれども、ダマスコは、今回神から罰せられている国々の中で、もっともドラマチックな場面で、聖書に名前が出てきます。

 創世記には、アブラハム(アブラム)の勇猛な話が出ています。ロトを含めた親類の者がダマスコから来た盗賊にとりこになったと聞いて、一族のしもべたちと追跡し、ダマスコの北まで追って打ち破ったことが記されています。(創世記14章12節〜16節) 穏やかな遊牧民としてのアブラハムのイメージを、一新させられる事件です。
 アブラハムは、子のない自分に子どもを与えると仰せになった神に、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか」と申し上げています。」

 のちにイスラエル12部族がカナンに入った時、ダマスコはマナセの相続地の外側ににありました。国境に近いせいか、紛争地であり、ダビデの時には、守備隊を駐屯させていたとあります。(Uサムエル記8章5節6節)
 エリシャの時代には、アラム王が何度もサマリヤを攻め、エリシャがその作戦を読み取るので、ベン・ハダデは、イスラエルを攻めきることができなかったと記されています。(U列王記6章)

 聖書読者には、何といっても、パウロの回心の話しに出てくるダマスコが印象的でしょう。まだサウロといわれていたパウロは、キリスト者を弾圧するためダマスコに向かっていました。ところがダマスコに近づいたとき、突然激しい光に打たれて視力を失い、同時にキリストの声を聞いて回心するのです。(使徒の働き22章6節〜8節)
 
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 地理的にはダマスコはシリヤに属し、アラム人が住んでいました。ハマテはダマスコの190キロほど北にある都市でした。ダマスコが国々の紛争の渦中にあったのは、小アジアと南を結ぶ通商路にあったことも大きかったようです。(新聖書辞典)

 ダマスコの破壊は、イザヤ書にも預言されています。(イザヤ書17章3節)

  いったい、どうして、
  栄誉の町、わたしの喜びの都は捨てられたのか。(25節)
  それゆえ、その日、
  その若い男たちは町の広場に倒れ、
  その戦士たちもみな、断ち滅ぼされる。
  ――万軍の主の御告げ――(26節)
  わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。
  その火はベン・ハダデの宮殿をなめ尽くす。」(27節)








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2016年11月02日

エレミヤ書142 ゲダルとハォル王国への審判(エレミヤ49章28節〜33節)



 エレミヤの預言――ユダ王国周辺への神の審判は、どんどん広がっていきます。素朴な聖書読者である私からすると、ゲダルやハツォルの王国にまで言及されているのは何故だろうと考えてしまうのです。彼等も異教徒であり、偶像礼拝者であったでしょう。しかし、イスラエルと深いかかわりがあったとは思えないのです。

 ゲダルは、イシュマエルの子どもにその名が見られます。イシュマエル族の子孫だと考えられています。(創世記25章13節) アモンの東側にありました。しかし、ハツォルは、ガリラヤ湖(キレネテ湖)北部にある同名の町とは別だと解説書にあります。アラビヤのどこかにあったようです。このような遠くの王国にまで、神の審判が下されているのは、たんに、バビロンの拡張が急激で、広範囲に及んだからだけでしょうか。
 結果的には、バビロン(新バビロニヤ)帝国はカナンを呑み込み、ユーフラティス川流域を支配しました。メディヤ王国の家臣アケネメス家のキュロスがメディヤ王国を滅ぼすと、バビロンも滅ぼされ、アケネメス朝ペルシャが誕生します。それは、西はエジプトから東はインダス川の西岸までを領有する一大帝国になったのです。
 このような大波――強国の侵略には、それが、神の審判に用いられるという意味があったと考えられます。

  バビロンの王ネブカデレザルが打ったケダルとハツォルの王国について。主はこう仰せられる。
  「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。(エレミヤ書49章28節)
  その天幕と羊の群れは奪われ、
  その幕屋もそのすべての器も、
  らくだも、運び去られる。
  人々は彼らに向かって
  『恐れが回りにある。』と叫ぶ。(29節)
  ハツォルの住民よ。逃げよ。遠くへのがれよ。
  深く潜め。――主の御告げ――
  バビロンの王ネブカデレザルは、
  あなたがたに対してはかりごとをめぐらし、
  あなたがたに対して
  たくらみを設けているからだ。(30節)

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  さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。
  ――主の御告げ――
  そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、
  その民は孤立して住んでいる。(31節)

 「安心して住んでいるのんきな国」、このような表現からは、邪悪な国であると想像するのは難しそうです。敵や競合相手が少ないので、無防備である人たちを私などはむしろ、「恵まれた環境にいる良い人」だと位置付けたいのです。
 ところが、そのハツォルを、主は「散らす」「災難を各方面から来させる」と仰せなのです。
「安心して住んでいる」こと、孤立していることが咎められているのでしょうか。

 たしかに、同じような平和な国が滅びた例が聖書にはあります。士師記の時代、カナンの地に相続地を求めていたダン族は、偵察隊をカナンの北に送り、ライシュという町に着いた。そこの住民は、平穏な生活に安心しきっており、もともとの仲間のシドン人とも離れて孤立して住んでいた。そこでダン族は、600人の戦士を送ってその町を奪い取ったのです。(士師記18章7節〜9節、28節)
 このような所業が許されたのは、聖書の物語が「神の救いのご計画」であることを、つねに思い起こさないといけないと思います。
 神の目からごらんになったとき、のどかで無防備である人たちが、「神の御心にかなっている」とは限らないと、警告をされているのではないでしょうか。

  彼らのらくだは獲物に、
  その家畜の群れは分捕り物になる。
  わたしは、こめかみを刈り上げている者たちを
  四方に吹き散らし、
  彼らに災難を各方面から来させる。
  ――主の御告げ――(32節)
  ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、
  ジャッカルの住みかとなり、
  そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」(33節)






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2016年11月03日

エレミヤ書143 エラムに対する審判(エレミヤ49章34節〜39節)



 エラムはユーフラテス川の東にあり、王国としてBC2000年頃からの長い歴史をもちます。スサを中心として、何度か盛衰を繰り返しながらも、勢力を誇っていました。アッシリヤや新バビロニヤ、メディヤ帝国とも政略を巡らせ戦いましたが、衰退して行き、バビロンのネブカデレザルの進攻やペルシャのエラム攻撃で滅ぼされてしまいます。

 エレミヤの預言は、バビロンの攻撃を指しているという説と、ペルシャの攻略を指すという説があります。(新聖書辞典)

 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった主のことば。(エレミヤ書49章34節)
  万軍の主はこう仰せられる。
  「見よ。
  わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く。(35節)
  わたしは天の四隅から、
  四方の風をエラムに来させ、
  彼らをこの四方の風で吹き散らし、
  エラムの散らされた者がはいらない国は
  ないようにする。(36節)

 エラムが盛衰を繰り返しながらも2000年も続いていた理由は、「高台」(エラム)と呼ばれる地の利の良さ、ペルシャ湾に面して国土が開けていることなどがあるのでしょう。強国の条件は、経済的に豊かであること、強い軍事力が欠かせないはずです。エラムは弓兵で知られていたようです。

  わたしは、エラムを敵の前におののかせ、
  そのいのちをねらう者たちの前におののかせ、
  彼らの上にわざわいを下し、
  わたしの燃える怒りをその上に下す。
  ――主の御告げ――
  わたしは、彼らのうしろに剣を送って、
  彼らを絶ち滅ぼす。(37節)

 しかし、どれほど伝統があり強い国でも、神が見限られるときには滅びます。

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  わたしはエラムにわたしの王座を置き、
  王や首長たちをそこから滅ぼす。
  ――主の御告げ――(38節)

 たしかに、エラムの首都スサは、アケネメス朝ペルシャの都になりました、アケネメス朝を立てたキュロス大王は、この時代「主が選ばれた者」でした。キュロスは異教の王であるにもかかわらず、イスラエルの神の声に従ってバビロン捕囚を帰還させたのです。

  しかし、終わりの日になると、
  わたしはエラムの捕われ人を帰らせる。
  ――主の御告げ――」(39節)

 エラムは散らされるのですが、「終わりに日には、エラムの捕らわれ人は帰らせる」と主は言われます。
 この預言は、「キリストの救いは異邦人にまで及ぶ」新約聖書の約束を思わせます。
 そう言えば、イエス様誕生に、はるばる駆けつけた天文学者たちは、東の国からやって来た人たちでした。







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2016年11月04日

エレミヤ書144 バビロンに対する預言(エレミヤ50章1節〜16節)




 主が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデヤ人の国について語られたみことば。(エレミヤ書50章1節)
  諸国の民の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。
  隠さずに言え。
  『バビロンは捕えられた。
  ベルははずかしめられ、
  メロダクは砕かれた。
  その像ははずかしめられ、
  その偶像は砕かれた。』(2節)

 エレミヤの預言は、ついに、バビロンへの審判となります。ベルやメロダクは、バビロンの神の名前です。
 もちろん、バビロンは滅亡するのです。
 諸国の民についてのエレミヤの預言は、エジプトに始まり、ペリシテ、モアブ、アモン、エドム、ダマスコ、ケダルとハツォル、エラム、とユダの周辺国はことごとく、バビロンによって打たれるのです。バビロンを用いた神の罰でした。
 ところが、エジプトからエラムに至る広い地域を嵐のように席巻したバビロンは、やがて、罰せられる側になるのです。

 なぜなら、北から一つの国がここに攻め上り、この地を荒れ果てさせたからだ。ここには住む者もない。人間から家畜に至るまで逃げ去った。(3節)
  その日、その時、――主の御告げ――

 北からバビロンを攻めてきたのは、メディヤ帝国とペルシャの連合軍でした。かつてメディヤと連合してアッシリヤの首都ニネベを陥落させたバビロンは、539年無血開城をしてクロスの前に下ってしまいます。

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 イスラエルの民もユダの民も共に来て、泣きながら歩み、その神、主を、尋ね求める。(4節)
 彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて、『来たれ。忘れられることのないとこしえの契約によって、主に連なろう。』と言う。(5節)
 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。(6節)
 彼らを見つける者はみな彼らを食らい、敵は『私たちには罪がない。彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したためだ。』と言った。(7節)

 歴史のある主要な国々が滅ぼされ、大国バビロンやメディヤが打たれ、クロス王の前に、中東が再編成されていく時代、ユダの民は、国を失い、捕囚の辛酸を味わいます。
 その惨めな労苦に、敵でさえ、「彼等の主に罪を犯したためだ」と、ユダやイスラエルを笑うのです、。

  バビロンの中から逃げ、カルデヤ人の国から出よ。
  群れの先頭に立つやぎのようになれ。(8節)
  見よ。わたしが、大国の集団を奮い立たせて、
  北の地からバビロンに攻め上らせる。
  彼らはこれに向かって陣ぞなえをし、
  これを攻め取る。
  彼らの矢は、練達の勇士の矢のようで、
  むなしくは帰らない。(9節)
  カルデヤは略奪され、
  これを略奪する者はみな満ち足りる。
  ――主の御告げ――(10節)

 この時代の激しい流れは、たんなる歴史が語られているのではありません。エレミヤは預言をしており、神がエレミヤの口にことばを授けられて、「神の御計画」を改めて告げ知らせておられるのです。

  わたしの相続地を略奪する者たち。
  あなたがたは楽しみ、こおどりして喜び、
  穀物を打つ雌の子牛のようにはしゃぎ、
  荒馬のようにいなないても、(11節)
  あなたがたの母はいたく恥を見、
  あなたがたを産んだ者ははずかしめを受けた。
  見よ。彼女は国々のうちの最後の者、
  荒野となり、砂漠と荒れた地となる。(12節)
  主の怒りによって、そこに住む者はなく、
  ことごとく廃墟と化する。
 バビロンのあたりを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。(13節)
すべて弓を張る者よ。
  バビロンの回りに陣ぞなえをし、これを射よ。
  矢を惜しむな。
  彼女は主に罪を犯したのだから。(14節)
  その回りに、ときの声をあげよ。
  彼女は降伏した。
  その柱は倒れ、その城壁はこわれた。
  これこそ主の復讐だ。
  彼女に復讐せよ。
  彼女がしたとおりに、これにせよ。(15節)
  種を蒔く者や、刈り入れの時にかまを取る者を、
  バビロンから切り取れ。
  しいたげる者の剣を避けて、
  人はおのおの自分の民に帰り、
  自分の国へ逃げて行く。」(16節)

 主に罪を犯したのは、イスラエルだけではありません。バビロンも、異教徒であっても、その罪によって、主から裁かれています。

 私たちはただ、状況がどのような激動の中にあっても、主を見あげてその御声を聞き続けなければいけないのだと、改めて思わされます。










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2016年11月05日

エレミヤ書145 万国を打った鉄槌――主(エレミヤ50章17節〜27節)



 イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。(エレミヤ書50章17節)
 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。(18節)

 大きな権力が「あっという間に」地に落ちる事実は、歴史にはいくらでも記されています。私たちがその「入り口」として学ぶ「歴史」とは、第一に、政治権力の消長だからです。
 聖書のなかでも、エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった超大国の波を見ることができます。たんに国の名前が変わり、権力者が交代しているだけではありません。世界史における変動は、じつにダイナミックです。国境線やそこを支配する民族までが、替わるのです。
 2千年以上も昔の「お話し」ではないですね。20世紀だけをとっても、国境は書きかえられ、巨大な権力が一瞬にして倒壊するのを、私たちは、今でも見ているのです。

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 ベルリンの壁が崩される映像は、世界中あまねく報じられました。米ソ二つの超大国、資本主義と共産主義、自由と平等、保守と革新といったことががこの時代の動かしがたい壁を築いていて、それは永遠であるかのように思われていました。それが、突然崩れたのです。
 究極の英雄、民衆のアイドルだった人たちの銅像が引き倒される映像も、数えきれないほど見ました。スターリンやレーニンは「ただの人」だったのではありません。もっと大きな「罪を犯した」英雄、人間の自己肥大の象徴だったのだと、ようやく気付かされました。
 「自分たちこそ神だ」「世界を作り、変え得る最高の存在だ」と、神を否定した人たちでした。

 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。(19節)
 その日、その時、――主の御告げ――イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」(20節)

  「メラタイムの地、ペコデの住民のところに
  攻め上れ。
  彼らを追って、殺し、彼らを聖絶せよ。
  ――主の御告げ――
  すべて、わたしがあなたに命じたとおりに、

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  行なえ。」(21節)
  「国中には戦いの声、大いなる破滅。(22節)
  万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。(23節)

 この言葉は、今も生きています。「万国を打った鉄槌」のように見える勢力が、現れては消えるからです。

  バビロンよ。
  わたしがおまえにわなをかけ、
  おまえは捕えられた。
  おまえはそれを知らなかった。
  おまえは見つけられてつかまえられた。
  おまえが主に争いをしかけたからだ。(24節)

 ひとたび巨大権力を築いた者たちは、その存続拡大に腐心します。最高の頭脳と知識と情報と富の限りを投入して、自己拡大しようとするのです。ひと時も立ち止まることはできません。「立ち止ることは死だ。敗北だ」「昨日より今日の方がより良くなるべきだ」「永遠に繁栄するために」「永遠に生きるために」「あなたならそれができるはずだ」「かならずできるから」
 人は聖書のことばでさえ、いつの間にか自分の「計画」のアクセルに組み込んでしまいます。「繁栄の神学」があたかも神の御心であるかのように扇動するのです。

 どのような繁栄も、神がワナをかけ、捕えられるときには、逃れることができないと主は仰せです。
 「主に争いをしかけた」なんてことはない、と泣いて訴えても手遅れです。
 主が、カルデヤ人の国に対して行なわれたことを、見る必要があります。

  主はその倉を開いて、
  その憤りの武器を持ち出された。
  それは、カルデヤ人の国で、
  万軍の神、主の、される仕事があるからだ。
  四方からそこに攻め入れ。その穀物倉を開け。
  これを麦束のように積み上げ、
  これを聖絶して、何一つ残すな
  その雄牛をみな滅ぼせ。ほふり場に下らせよ。
  ああ。哀れな彼ら。
  彼らの日、その刑罰の時が来たからだ。」(27節)








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