2016年11月11日

Coffee Breakエレミヤ書150  エルサレムの壊滅(エレミヤ52章1節〜14節)



 エレミヤ書もいよいよ最終章にやってきました。52章は、冒頭からわかる通り、過去の文書(U列王記24章18章〜25章30節、U歴代誌36章18節〜)の引き写しです。これは、エレミヤの預言ではなく、のちに加えられた文書です。(新実用聖書注解・いのちのことば社) エレミヤの預言が実現したことを念押しするために、附け加えられたのだろうと推測されています。

 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナの出のエレミヤの娘であった。(エレミヤ書52章1節)
 彼は、すべてエホヤキムがしたように、主の目の前に悪を行なった。(2節)
 エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである。そののち、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。(3節)
 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。(4節)
 こうして町はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていたが、(5節)
 第四の月の九日、町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。(6節)
 そのとき、町が破られ、戦士たちはみな逃げて、夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た。カルデヤ人が町を包囲していたので、彼らはアラバへの道を行った。(7節)
 カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原でゼデキヤに追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。(8節)
 そこでカルデヤ人は王を捕え、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。(9節)

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 エルサレムの陥落、第三回バビロン捕囚のこの箇所は、二度三度読むには「きつい」ところです。何といっても神の都エルサレムが破壊されるのです。神がお立てになったダビデの家とその王座が滅ぼされるのです。多くの神の民が遠い国バビロンに強制連行させられるのです。そこの至る過程は、籠城の果ての落城です。巨大な軍隊に囲まれて、二年にも及ぶ籠城をしたエルサレムも、ついに食料がなくなって逃げ出す者が現れるのです。王でさえそうしたのです。
 王が、自分の軍隊とともに逃亡している途中、バビロンに追いつかれるとき家来たちは逃げてしまったのです。イスラエル側があまりに厳しい戦いの中で疲れ果てていたのが見て取れます。
 ここまでだけでも、多くの悲劇的な物語が展開されていたことでしょう。

 バビロンの王は、ゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺し、ユダのすべての首長たちをリブラで虐殺した。(10節)
 またゼデキヤの両眼をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。(11節)

 ゼデキヤがこれほど厳しい処罰を受けたのは、彼がバビロンによって立てられていた傀儡の王だったからです。ゼデキヤは、自分の立場を「知っていた」はずですが、王宮の長として、さまざまな立場の者の意見にも、ゆすぶられたようです。
 エレミヤの預言が、バビロンに素直に服従するようにというものだったのに、宮廷にはエジプトを頼って活路を開きたいと思う者たちがたくさんいたのです。

 ゼデキヤの過ちは、たんにバビロンを怒らせたこと以上に、エレミヤを用いて下された神のことばを聞かなかったことだったのです。
 王も民もいなくなったエルサレムが敵によって荒らされます。略奪され、神殿が破壊され、火をかけられます。

 第五の月の十日・・それは、バビロンの王ネブカデレザル王の第十九年であった。・・バビロンの王に仕えていた侍従長ネブザルアダンがエルサレムに来て、(12節)
 主の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。(13節)
 侍従長といっしょにいたカルデヤの全軍勢は、エルサレムの回りの城壁を全部取りこわした。(14節)

 そして、とうとう、エルサレムを囲む城壁が取り壊されます。








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2016年11月12日

Coffee Breakエレミヤ書151  エルサレムの壊滅(エレミヤ52章15節〜34節)



 侍従長ネブザルアダンは、民の貧民の一部と、町に残されていた残りの民と、バビロンの王に降伏した者たちと、残りの群衆を捕え移した。(エレミヤ書52章15節)
 しかし、侍従長ネブザルアダンは、国の貧民の一部を残し、ぶどう作りと農夫とにした。(16節)

 エルサレムのなかで、捕囚に連れ去られなかったのは、貧しい民です。バビロンは自分たちの国に捕え移して「つかえる」有能な人材を選んで連れ去ったのです。そのような人たちは、国を支えている大事な場所で働いているわけですから、ユダ自体を弱体化させるためにも有効な方法でした。このようなことをされたら、どのような国でも二度と立ち上がれないでしょう。

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 読んでいて、胸痛むのは、神殿の破壊です。
 神殿を造るのは、ダビデの悲願でした。信仰の確かなダビデは、自分は高価なレバノン杉の木の家に住み、主の契約の箱が天幕の中にあることに呵責を感じたのです。彼は、神殿建設をしたいと思いましたが、主が預言者ナタンを通じてダビデの計画を止められたのです。(Uサムエル記7章14節〜17節) 神殿建造は息子のソロモンに託されました。ダビデはソロモンのためにたくさんの建築資材や礼拝形式の確立に力を注ぎました。

 ソロモンが神殿建設に取り掛かったのは、ソロモンがイスラエルの王になってから4年目のことでした。(T列王記6章1節)
 それは、ソロモンの第11年目の第八の月に、完成しました。じつに7年の歳月を要した大事業でした。(同37節)

 それが、いかに精魂を傾けた事業だったかがT列王記7章8章全部を通じて、語られています。

 カルデヤ人は、主の宮の青銅の柱と、主の宮にある青銅の車輪つきの台と、海とを砕いて、その青銅をみなバビロンへ運んだ。(17節)
 また、灰つぼ、十能、心切りばさみ、鉢、平皿、奉仕に用いるすべての青銅の器具を奪った。(18節)
 また、侍従長は小鉢、火皿、鉢、灰つぼ、燭台、平皿、水差しなど、純金、純銀のものを奪った。(19節)
 ソロモン王が主の宮のために作った二本の柱、一つの海、車輪つきの台の下にある十二の青銅の牛、これらすべての器具の青銅の重さは、量りきれなかった。(20節)
 その柱は、一本の柱の高さが十八キュビトで、その回りを測るには十二キュビトのひもがいり、その厚さは指四本分で、中は空洞になっていた。(21節)
 その上に青銅の柱頭があり、一つの柱頭の高さは五キュビトであり、柱頭の回りに、網細工とざくろがあって、それもみな青銅で、他の柱もざくろもこれと同様であった。(22節)
 まわりには九十六のざくろがあり、回りの網細工の上には全部で百のざくろがあった。(23節)

 バビロンに持ち去られた神殿の器物、祭祀道具、柱やその装飾品がどのように造られたかは、T列王記6章、7章に克明に記録されています。

 ソロモンが信仰をもって、その国力のすべてを傾けて建設し、細部まで丹念に作り上げげた仕事が異教徒の略奪の対象となって破壊され、たんなる金属の重量、金銀の価値に還元され、持ち去られたのです。
 つぎに、祭司のかしらと次席祭司が取られたとありますが、祭司たるもの、このような神殿への乱暴を見過ごすことはできなかったに違いありません。
 微力ながらも最期の抵抗をする人たちを、バビロンの指揮官は捕えるのです。

 侍従長はさらに、祭司のかしらセラヤと次席祭司ゼパニヤと三人の入口を守る者を捕え、(24節)
 戦士の指揮官であったひとりの宦官と、町にいた王の七人の側近と、一般の人々を徴兵する将軍の書記と、町の中にいた一般の人々六十人を、町から捕え去った。(25節)
 侍従長ネブザルアダンは彼らを捕え、リブラにいるバビロンの王のもとへ連れて行った。(26節)
 バビロンの王は彼らを打ち、ハマテの地のリブラで殺した。こうして、ユダはその国から捕え移された。(27節)
 ネブカデレザルが捕え移した民の数は次のとおり。第七年には、三千二十三人のユダヤ人。(28節)
 ネブカデレザルの第十八年には、エルサレムから八百三十二人。(29節)
 ネブカデレザルの第二十三年には、侍従長ネブザルアダンが、七百四十五人のユダヤ人を捕え移し、その合計は四千六百人であった。(30節)

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 この壊滅的な悲劇にわずかに明かりが見えるのは、エホヤキンが牢獄から出されたというエピソードです。

 ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、(31節)
 彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。(32節)
 彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。(33節)
 彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。(34節)

 エホヤキンはヨシヤの子エホヤキムの子でした。エホヤキムがバビロンに反逆して殺されたあと、即位しましたが、三カ月でバビロンに攻められて、降伏しています。彼の代の捕囚はとても大がかりでした。王宮の財宝のほとんどと、王族をはじめ、エルサレムの有力者、職人、兵士の多くをバビロンに引いて行きます。(U列王記24章13節〜16節) これは、18歳で即位して三カ月しかならない若い王にとって、たいへん過酷な体験だったはずです。しかし、37年後、彼は獄屋から出され、王にふさわしい待遇を得て余生を送ったとあります。

 エレミヤ書は、壊滅したユダ王国の最後に、小さな希望の光をともして終わっているように思われます。
 イスラエルを「神の選びの民」となさってきた主の憐れみと、未来に託された救い主の約束を当時のエホヤキンが見たかどうかはわかりませんが。

 私たちは、むしろU歴代誌に記された次のことばに注目すべきでしょう。

 これは、エレミヤにより告げられた主の言葉が成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。(U歴代誌36章21節)




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2016年11月14日

Coffee Breakエレミヤ書152  預言者の必要(エレミヤ書1章5節)



 エレミヤ書は預言者について、改めて考えさせます。預言者(予言者)とはなにか。どのような仕事だったのか、なぜ、そのような存在が求められたのか。

 予言というものは、おそらく人類が文明をもった時に生まれ、以来途絶えることがなかったと思われます。人は、「予測をする」動物です。「預言」を知りたいと願う存在です。未来やまだ見えない世界を覗き見ようとするのです。今目の前にあることだけを見て、その場その場で適応する行動や思考には「知性」はないわけです。まだ、見えない未来、ここではなく「どこかほかの場所」について思いを馳せることができるのが人間を他の動物と分けている分岐点ではないでしょうか。

 人間は未来に対して不安を抱きます。たんに経済的、政治的、社会的に「先が見えない」といったことだけではないようで、億万長者であっても、権力を一身に集めた独裁者であっでも、子や孫・親族、多くの崇拝者にとりかこまれていても、不安にとらえられます。豪華な葬儀や壮麗な墓など、古来の権力者や金持ちが死後を飾ろうとするのは、そうした不安の表れではないでしょうか。
 でも、恥じることではないと思います。それこそ、人間だけが抱く不安だからです。それは、人間だけが、「自分がどこから来て、どこへ行くのだろう」と自問できる能力です。

 そのような能力は、じつは、自分がいるのは、「今ここだけ」ではなく、やってきた場所と行くべき場所が存在するのだと、「知っている」ためのように思います。
 聖書は、それが、何であるかを教えている書物です。

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 このブログにもリンクを載せて下さっている佐々木正明師の著作「神の国」に、あらゆる動物の中でも、祈るのは人間だけであると明言されています。

 たしかに、賢い犬や猫、心をいやしてくれるたくさんの動物がいます。舌を巻くような方法で繁殖したり、移動したり、擬態したりする動物もいます。誰に命じられなくても、とくに学校に行かなくても、時期が来れば繁殖行動をとり、雌を呼ぶために特有の鳴き声を出し、恋を育むために種特有のダンスをします。でも、彼等は「自分たちはどこから来てどこへ行くのだろう」と自問することがあるのでしょうか。
「神様。おはようございます」「神さま、今日も良い餌に巡り合いますように。おいしい水が飲めますように」と祈ることがあるのでしょうか。
 それは、「ない」というのが、定説ですね。

 その理由を、「神の国」は次のように説明しています。

 神に似せられて造られた人間  神の自己表現の中で、とくにきわ立っているのは、人間の創造です。驚くべきことに、人間は神の姿にかたどって造られたのです。もちろん、これは神に手足があるということではありません。人間は、霊的な存在者である神に似せて、霊的な存在として造られたということです。たんに、犬や猫のように、生まれ、食べ、繁殖し、死ぬ、動物的な体と命だけではなく、神と交わることができるように、神と同じ性質の霊を与えられて造られたのです。そのため、すべての動物の中で、人間だけが、神を礼拝したいという心、祈りたいという気持を、本能として持っているのです。そういうわけで人間は、たとえ、どんなに進んだ文明の中に住んでいても、未開の世界に生きていても、すべて、例外(れいがい)なく宗教を持っているのです。 (創世記1:26−27、2:7)
     ペンテコステ宣教学→優しい神の国講座
       http://www.geocities.jp/tillich37/

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 明日起こる事を知りたいというのは、すべての人間の心の底から出てくる、消すことのできない願いです。
 口では「神などいない」と、豪語しているような人でも、一度も「祈ったことがない」人はいないでしょう。自分の行先は、「死であって、死んだら終わりだ」ということ自体が、すでに、死を見つめないではいられない人間の、不安を表わしていないといえるでしょうか。
 動物は、死を思っているようには見えません。もし、動物が死を思っていたら、食物連鎖によって成り立つ自然界で、どうして、毎日ゆうゆうと空を飛んだり、森を徘徊したり、氷の上でアザラシの群れがやって来るのを一か月も待つことができるでしょう。望みの餌が現れなかったらシロクマも餓死するのです。森やサバンナが開発され、餌になる動物がいなくなってもライオンは、痩せて力尽きるまで獲物を捜し歩くのです。
 
 人間は、それほどいさぎよくはできません。また、その必要もありません。祈ることができるからです。祈れば、「聞いていただける」と思うからです。
 いえ。「わたしに聞け」と、じつは、私たちの造り主・親にあたる方。・神ご自身が仰せなのです。

 どうしても、人が聞かない時、それ以上、見過ごすことができない時、神は、預言者をお立てになって、「神の民」を目ざめさせようとされた、そんな気がするのです。

 エレミヤが召された時、神は仰せです。

 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、
 あなたを知り、
 あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
 あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ書1章5節)








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2016年11月15日

Coffee Breakエレミヤ書153  預言者の役割と苦悩(エレミヤ書)



 エレミヤは20歳くらいで預言者として召され(BC627年)、40年以上に亘って預言活動を行ったようです。召されたのは、宗教改革を行なったヨシヤ王の治世の13年ですが、じつは、前途にユダ王国の滅びが迫っている時代でもありました。

 預言者は、神が召されるのですから、最高の権威をバックにしているはずです。ぎゃくに、真に神を恐れる者にとって、そのような指名を受けることは畏れ多いことだったに違いありません。
 エレミヤは、神の召しを固辞するのです。その理由は、彼の若さ、未熟さです。彼は祭司の家系に生まれたようですから、一通りの祭祀儀礼、律法、伝承などに通じていたかもしれませんが、そのような基礎教養では預言者は務まらないと、ひるんだのです。

 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ書1章5節)
 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」(6節)

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 聖書は、神のことばですから、しばしば私たちの常識や思い込みに挑戦してくると、さとうも頭ではわかりかけています。
 でも、このように、召し出されたら、だれでも断りたくなるのではないでしょうか。
「若いから無理です」としり込みするエレミヤに、神は、「少しずつ慣れれば良い、やさしいところから始めるから」とはおっしゃいません。

 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。(7節)
 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ」(8節)

 どんなところへでも行き、命じられたことを全部語れと仰せなのですから、大変な職務です。徴兵されたばかりの兵士を、最前線の激戦地に送り、その上、士官にも司令官にも、「必要なことを語れ」。彼等の顔を恐れるなと言われるくらいですから、神ご自身、そのミッションが過酷なものであるとわかっておられるのです。
 ふつうの、世の中では、とりわけ、当時のイスラエルの社会では、「白髪の人を尊敬せよ」「上からの権威に従え」は、常識だったと思うのです。「神によって立てられなかった権威はなく・・・」なのです。とうぜん身分や地位の高い人は、若造の預言者の歯に衣着せぬ言葉に、激怒するのです。
 エレミヤは、それを思ったゆえに、震えたことでしょう。

 すると、神は、さらに重い任務を明かされるのです。

 見よ。わたしは、きょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわし、あるいは建て、また植えさせる。」(10節)


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 エレミヤ書を読むと、神は事実、その時期、オリエント世界の秩序に抜本的な変化をもたらされ、その大暴風の中でユダ王国のあるべき姿、そのかじ取りを、神のことばとして宣べ伝えさせるのです。
 神の権威と力は絶対ですから、エレミヤは正しく用いられ、預言は実現するのです。
 しかし、預言者ならぬ、王や民に、真実がわかるはずはありません。
 自分に都合の悪いこと、悲観的な未来予想など聞きたくないのが、人間の弱さです。
 事実、偽預言者まで現れて、大勢に迎合する中で、エレミヤが辛酸と苦悩の極みを味わったのは、当然です。
 
 神からの召しを受けた栄誉、その最高の権威を身にまとった人が、地をのたうつように苦しむというパラドックスが預言者の身に現れています。
 エレミヤ書をたどって、預言者という独特の存在に、なぜ聖書でこれほどまで大きくページを割かれているのかと改めて、問う学びでした。
 エレミヤも、やがて来られる主イエスの露払いをしていたのだと、筆者もようやく気が付くのです。






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2016年11月16日

Coffee Breakエレミヤ書154  エレミヤ書から哀歌へ(哀歌1章1節〜7節)



  ああ、人の群がっていたこの町は、
  ひとり寂しくすわっている。
  国々の中で大いなる者であったのに、
  やもめのようになった。
  諸州のうちの女王は、
  苦役に服した。(哀歌1章1節)
  彼女は泣きながら夜を過ごし、
  涙は頬を伝っている。
  彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。
  その友もみな彼女を裏切り、
  彼女の敵となってしまった。(2節)
  ユダは悩みと多くの労役のうちに
  捕え移された。
  彼女は異邦の民の中に住み、
  いこうこともできない。
  苦しみのうちにあるときに、
  彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。(3節)
  シオンへの道は喪に服し、
  だれも例祭に行かない。
  その門はみな荒れ果て、
  その祭司たちはうめき、
  おとめたちは憂いに沈んでいる。
  シオンは苦しんでいる(4節)

 旧約聖書には、エレミヤ書に続いて哀歌がおかれています。哀歌は、詩歌ですから、預言書と同じ分類にはいっていることに違和感を持つ方もいるのではないでしょうか。さとうもその一人です。内容も、最初から終わりまで「嘆きの歌」です。預言は、神のことばが預言者の口を通して、多くの人たちに伝えられるためにあります。社会的な機能があるというべきでしょう。

 事実、この順序は、70人訳の伝統に倣い、エレミヤ書の後に置かれているのであって、ヘブル語聖書では、第3部諸書の中に含まれ、ルツ記、雅歌、伝道者の書、エステル記の4書とともに、一まとまりを成す形で置かれている(新実用聖書注解・いのちのことば社)とのことです。
 また、著者がエレミヤであるかどうかも、伝統的にそう考えられてきたのであって、本書自体には、著者が誰かを示す箇所はない。エレミヤが著者である可能性を否定する必要はないが、積極的に主張する根拠はない(同注解書)そうです。

 学術的な解釈は、とりあえず、聖書読者にとって、横における問題だと思います。何といっても、この書物は聖書に入れられたのです。聖書の構成については、人が編集したとしても、背後に神が働かれてそのようにされたのです。

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 哀歌は、歌ですから、預言の記録であるエレミヤ書とは、全然趣が異なります。
 全篇、詩人の嘆きで貫かれています。
 文学的にもヘブル語アルファベットとの絡みで特別な技巧が凝らされているそうです。主観的な心情の吐露であっても、詩が「文学」にまで凝集するためには、感情のおもむくまま「叫んだ」言葉の連なりではあり得ないのです。そうであれば、せっかくの詩人の心も充分に伝わらない可能性があるのです。
 編集に、仮に他人のペンが関わっていても、その詩歌に真実を見ることはできます。
ユダ王朝末期、崩壊したエルサレムの中にすわりこんで神の都の悲惨な姿を嘆いた人は、事実、たくさんいたに違いありません。

 エレミヤの預言に耳を貸さなかった人々も、現実に、壊れた城壁を見て、捕囚に連れ去られる自分を考えたはずです。それが、哀歌だと思うのです。

  彼女の仇がかしらとなり、
  彼女の敵が栄えている。
  彼女の多くのそむきの罪のために、
  主が彼女を悩ましたのだ。
  彼女の幼子たちも、仇によって
  とりことなって行った。(5節)
  シオンの娘からは、すべての輝きがなくなり、
  首長たちは、牧場のない鹿のようになって、
  追う者の前を力なく歩む。(6節)
  エルサレムは、悩みとさすらいの日にあたって、
  昔から持っていた自分のすべての宝を思い出す。
  その民が仇の手によって倒れ、
  だれも彼女を助ける者がないとき、
  仇はその破滅を見てあざ笑う。(7節)









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