2016年11月17日

Coffee Breakエレミヤ書155  深い悲嘆――主が見放された!(哀歌1章8節〜17節)



  エルサレムは罪に罪を重ねて、
  汚らわしいものとなった。
  彼女を尊んだ者たちもみな、
  その裸を見て、これを卑しめる。
  彼女もうめいてたじろいだ。(哀歌1章8節)
  彼女の汚れはすそにまでついている。
  彼女は自分の末路を思わなかった。
  それで、驚くほど落ちぶれて
  だれも慰める者がない。
  「主よ。私の悩みを顧みてください。
  敵は勝ち誇っています。」(9節)

  仇が彼女の宝としているものすべてに
  手を伸ばしました。
  異邦の民が、その聖所にはいったのを
  彼女は見ました。
  あなたの集団に加わってはならないと、
  あなたがかつて命じられたものが。(10節)
  彼女の民はみなうめき、食べ物を捜しています。
  気力を取り戻そうとして、
  自分の宝としているものを食物に代えています。
  「主よ。私が、卑しい女になり果てたのを
  よく見てください。」(11節)

★★★★★

 英語訳聖書では、哀歌はLamentationsと訳されています。(MEV, NAS, NIV, TEV訳聖書)
日本語の意味は「悲嘆・哀悼」「悲嘆の声」です。

 喜怒哀楽というくらいで、感情はつねにゆれ動きますが、怒りや哀しみは、出来れば避けて通りたい感情です。 というより、怒りや哀しみがわき上がるような状況に遭いたくないのです。喜びにみたされ、楽しくやっていけたらと、願わない人はいません。

 でも、それは無理な注文というものですね。人は最後まで繁栄を喜んで、笑いに満たされて過ごすことはできない存在です。その始まりに、死が入ってしまった命を抱えて、相争って、顔に汗を流して働いて「食物を得る」者として、この世を生きていくように宿命づけられたのです。
 そこから逃れる方法はただ一つです。いつか、御許に連れ戻して下さるという神の声を、それがどれほどか細くても、神の声を聞きながら、希望をもって歩むことだと、聖書は教えています。

 イスラエル民族は、神から声を掛けていただけた「選びの民」でした。罪の世を生きる全人類の中で、もっとも希望に近い場所にいたのです。
 それなのに、悲嘆の歌を歌わなければならなくなったのです。
 「選びの民」の誇り・エルサレムが凌辱されたからです。それも、神を知らない「異邦人」たちの手によるのです。
 壮麗な神の都を辱しめた異邦人たちは、とうぜん勝ち誇っています。
 人々は、どうして、こんなことになったのかと、問うのです。
 
  道行くみなの人よ。よく見よ。
  主が燃える怒りの日に私を悩まし、
  私をひどいめに会わされた
  このような痛みがほかにあるかどうかを。(12節)
  主は高い所から火を送り、
  私の骨の中にまで送り込まれた。
  私の足もとに網を張り、
  私をうしろにのけぞらせ、
  私を荒れすさんだ女、
  終日、病んでいる女とされた。(13節)
  私のそむきの罪のくびきは重く、
  主の御手で、私の首に結びつけられた。
  主は、私の力をくじき、
  私を、彼らの手にゆだね、
  もう立ち上がれないようにされた。(14節)
  主は、私のうちにいたつわものをみな追い払い、
  一つの群れを呼び集めて、
  私を攻め、
  私の若い男たちを滅ぼされた。
  主は、酒ぶねを踏むように、
  おとめユダの娘を踏みつぶされた。(15節)

 恐ろしい悲惨がつぎつぎと歌われています。このような目に遭えば、この詩人(エレミヤ)でなくても、涙を流すでしょう。平和な時なら、たった一人の小さなケガでも病でも深刻な事件です。家に空き巣が入っただけでも大きなダメージです。しかし、国そのものが崩壊してしまっては、小さな平和などたちまち踏みつぶされてしまうのです。
 王も兵士もいなくなっては、防御も抵抗もできません。

 ★★★★★

 なにが悲しいと言って、その惨状を行なっているのは「敵=異邦人」ではないことです。敵に侵入を許された[主]ご自身なのです。
 これまでは、どんな時でも自分たちを守ってくださると信じていたヤーウエ、・アブラハム、イサク、ヤコブの神ご自身が、ご自分の民を見放されたのです。

  このことで、私は泣いている。
  私の目、この目から涙があふれる。
  私を元気づけて慰めてくれる者が、
  私から遠ざかったからだ。
  敵に打ち負かされて、
  私の子らは荒れすさんでいる。(16節)
  シオンが手を差し出しても、
  これを慰める者はない。
  主は仇に命じて、
  四方からヤコブを攻めさせた。
  エルサレムは彼らの間で、
  汚らわしいものとなった。(17節)







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2016年11月18日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌156  深い悲嘆――主が見放された!(哀歌1章18節〜22節)



  主は正義を行なわれる。
  しかし、私は主の命令に逆らった。
  だが、すべての国々の民よ、聞け。
  私の痛みを見よ。
  私の若い女たちも、若い男たちも、
  とりことなって行った。(哀歌1章18節)
  私は愛する者たちを呼んだのに、
  彼らは私を欺いた。
  私の祭司も長老たちも、町の中で息絶えた。
  気力を取り戻そうとして、
  自分の食物を捜していたときに。(19節)

 改めて、言うまでもないことですが、ここでの主語「私」は、エルサレムのことです。詩人は、エルサレムがあたかも人――詩人自身のように嘆く声を聞くのです。
 神の都エルサレムが凌辱され、崩壊させられて、だれよりも嘆いているのは、エルサレムそのものだったのです。

 エルサレムは、神がお立てになった都ですが、同時に、イスラエルの民が信仰の中心として、彼等の財力や知力のすべてを傾けて建設したのです。神の神殿と神に油注ぎを受けた王をいただいた壮麗な都は、あたかもそれ自体、生きているもののようにイスラエルの民を守っていたはずです。
 民がしばしば偶像を持ち込み、自分たちの神を忘れ、神殿を粗略に扱っている時も、エルサレムは、民の要でした。
 エルサレムは、民の叛きを悲しんでいたかもしれませんが、民はエルサレムの嘆きの声を聞くことはなかったのです。
 けれども、ここにいたって、詩人にはエルサレムの嘆きの声が聞こえました。詩人自身が嘆き、神に祈っていたからでしょう。

  「主よ。ご覧ください。
  私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、
  私の心は私のうちで転倒しています。
  私が逆らい続けたからです。
  外では剣が子を奪い、
  家の中は死のようです。(20節)
  彼らは私のため息を聞いても、
  だれも私を慰めてくれません。
  私の敵はみな、私のわざわいを聞いて、喜びました。
  あなたが、そうなさったからです。
  あなたが、かつて告げられた日を来させてください。
  そうすれば、彼らも私と同じようになるでしょう。(21節)

 「神がかつて告げられた日」とは、エレミヤ書における諸国民に対するさばきの日です。(エレミヤ書25章15節〜26節)

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  彼らのすべての悪を、御前に出させ、
  あなたが、私のすべてのそむきの罪に対して、
  報い返されたように、
  彼らにも報い返してください。
  私のため息は大きく、私の心は痛みます。」(22節)

 神はご自分の民の叛きの罪を裁かれますが、もちろん、神の民でない者の無法に対し、報いを返されるのです。万物を神の義で支配しておられる神が、正義のさばきを行われるのは当然なのです。







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2016年11月19日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌157  悔改めの歌としての哀歌(哀歌2章1節〜12節、エレミヤ書19章9節)



 哀歌は神への祈りの書である。ユダヤ人は、現在でもアブの月の9日には、神殿の滅亡を悲しみ、断食をして本書を朗読する。(新実用聖書注解・いのちのことば社)とのことです。
 納得できますね。だれでも、エレミヤ書を読んだ後で、哀歌を読むのは、滅亡するユダ王国と神の都エルサレムの悲惨を二度見るようで耐え難いはずです。それを「祈りの書」とすれば、また見方が変わってきます。

  ああ、主はシオンの娘を
  御怒りで曇らせ、
  イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、
  御怒りの日に、
  ご自分の足台を思い出されなかった。(哀歌2章1節)
  主は、
  ヤコブのすべての住まいを、容赦なく滅ぼし、
  ユダの娘の要塞を、憤って打ちこわし、
  王国とその首長たちを、地に打ちつけて汚された。(2節)
  燃える怒りをもって、
  イスラエルのすべての角を折り、
  敵の前で、右の手を引き戻し、
  あたりを焼き尽くす燃える火で、
  ヤコブを焼かれた。(3節)

★★★★★

 哀歌は、ただ「悲惨」「苦難」にあった者の、嘆きがあるだけではありません。そうであったなら、のちに、形の整った詩歌として整えられ、祈りの歌としてもちいられるはずがありません。
 私はヘブル語聖書を読むような素養はまったくないのですが、この歌は、ヘブル語の詩歌の美しい形式を踏んでいるそうです。各節の頭文字がアルファベッドの順番になっているのです。

  主は敵のように、弓を張り、
  右の手でしっかり構え、
  仇のように、
  いとしい者たちのすべてを虐殺し、
  シオンの娘の天幕に
  火のように憤りを注がれた。(4節)
  主は、敵のようになって、
  イスラエルを滅ぼし、
  そのすべての宮殿を滅ぼし、
  その要塞を荒れすたらせて、
  ユダの娘の中にうめきと嘆きをふやされた。(5節)
  主は、畑の仮小屋のように、
  ご自分の幕屋を投げ捨てて、
  例祭の場所を荒れすたらせた。
  主はシオンでの例祭と安息日とを忘れさせ、
  激しい憤りで、王と祭司を退けられた。(6節)
  主は、その祭壇を拒み、聖所を汚し、
  その宮殿の城壁を敵の手に渡された。
  すると、例祭の日のように、
  彼らは、主の宮でほえたけった。(7節)

 たとえ、翻訳聖書を読む者でもわかることがあります。それは、哀歌には、深い悔改めがあることです。滅びに直面した人たちは、その悲惨がどこから来たものが自覚しています。たしかに実行犯はバビロンです。異邦人がやって来て、殺し、壊し、奪ったのですが、バビロンにそうさせられたのは主ご自身なのです。主ご自身が、決心されて、その手順までお決めになったと、歌われています。

  主は、シオンの娘の城壁を荒れすたらせようと決め、
  測りなわでこれを測り、
  これを滅ぼして手を引かれなかった。
  塁と城壁は悲しみ嘆き、
  これらは共にくずれ落ちた。(8節)
  その城門も地にめり込み、
  主はそのかんぬきを打ちこわし、打ち砕いた。
  その王も首長たちも異邦人の中にあり、
  もう律法はない。
  預言者にも、主からの幻がない。(9節)
  シオンの娘の長老たちは、地にすわって黙りこみ、
  頭にはちりをまき散らし、身には荒布をまとった。
  エルサレムのおとめたちは、
  その頭を地に垂れた。(10節)

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  私の目は涙でつぶれ、
  私のはらわたは煮え返り、
  私の肝は、私の民の娘の傷を見て、
  地に注ぎ出された。
  幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。(11節)
  彼らは母親に、
  穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、
  町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、
  母のふところで息も絶えようとしている。(12節)

 ゼデキヤ王がネブカデレザルに抵抗したとき、エルサレムは二年以上敵に取り囲まれて、兵糧攻めにあいました。飢えが民を襲ったのです。大人はとにかく、事情のわからない子供たちは泣いて死んでいくしかありません。
 籠城のなかで兵士や民が餓死するエピソードは、世界史の中で案外たくさんありますが、だれも、そのような目に遭いたいとは思いませんね。極限まで飢えると、人は仲間の屍体を食べたり、殺してでも食べようとしたりするようになるとの記録があります。
 この哀歌にも、母親が子供を殺して食べる場面を彷彿させる箇所があります。(2章20節) エレミヤの預言でも、主は、そのようなことを起こされると明言しています。

 また、わたしは、包囲と彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼等に自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いにその友の肉を食べ合う。(エレミヤ書19章9節)

 これほどの悲惨が実現するまで、人は、悔い改めないということでしょうか。
 じっさいには、これほどの悲惨があることがわかっていながら、人は同じ過ちを何度も繰り返してきたと思うのです。






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2016年11月20日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌158  陶器師の手のわざ(哀歌2章13節〜22節、イザヤ書45章9節〜13節、ローマ人への手紙7章15節〜)



 バビロン捕囚の悲惨さを見るにつけ、どうしてこのようなことが起ったのだろう。どうして、またそれを文書にして残し、預言書に加えて、哀歌を聖書に置かれたのだろうと考えずにはいられません。
 神が養い育てられたイスラエル民族、神がお立てになったイスラエル王国の特別な歴史を考えるとき、ほんとうに心の底深く、「主は陶器師」と納得するしかないと私は思っています。(イザヤ書45章9節)
 しかし、イザヤの預言は、すぐ次の箇所で、はっきりと捕囚の民の解放を宣告しています。(同13節)
 
 主は、宇宙万物、私たち人類、すべてのありとあらゆるものをお造りになっただけではなく、私たちを楽園から追放されただけでなく、私たちを救うご計画をお持ちだった・・。それにしても、そのご計画は恐ろしく、ダイナミックで、人の想像を超えている。

 神様なら、最初からイメージ通りの「正しい人類」をお造りになることも出来たでしょうに。神に似せて造られた私たちなら、最初からアダムとエバに、悪魔が近づかないようなワクチンを接種済みにしておいてくださればよかったのに。
 もちろん、すべては可能であったはずですが、神様が悪魔にそそのかされる人間をお造りになったのは、あえて、「わかっていて」そうされたことだったのでしょう。
 アッセンブリ教団・西九州教会の佐々木正明牧師は、その著書「神の国」で次のように解説しています。

 神が人間をお造りになったとき、どうして、罪を犯さない人間にしなかったのですかとたずねる人がいます。たしかに神は、善悪を選択することができる自由意思を持つものとして、人間をお造りになりになりました。自由意思を持っていない存在は神に似たものではなく、単なるロボットです。とくに、善悪の問題に関して言えば、始めから、善以外は選ぶことが出来ないように、造られてしまったとするならば、その善は真の善ではありません。善と悪のふたつがあって、どちらでも選ぶことができるという中で、善を選んでこそ、初めて善となるのです。ですから、自由意思を持った人間は、「欠陥製品」ではなく、最高作品でした。また、神が人間にお与えになった善悪選択の試みは、人間が真に神に似た霊的な存在として、完成されるためには、絶対になくてはならない条件だったのです。(創世記3:1−24)

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 悪魔の試みは、しかし、楽園を追放されてよけい熾烈になったのです。なにしろ悪魔はこの世の支配者なのです。
キリストの熱心な弟子パウロでさえ、言うのです。
 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。(略) ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ人への手紙7章15節〜)

 神は、人間がそのような者であることをご存知で、だから、陶器師のように、何度も土を練り直し、あるいは捨て、あるいは潰して成型し直そうとされ、容赦のない強い意思をもって、イスラエルの民を「痛めつける」必要があったのでしょう。
 でも、それは、永遠の滅びではなかった――と、知ることができる21世紀の私たちは幸いです。
それを知ったうえで読む哀歌は、それでも「救い」が感じられる、そんな気がします。

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  エルサレムの娘よ。
  私はあなたを何にたとえ、
  あなたを何になぞらえよう。
  おとめ、シオンの娘よ。
  私は何にあなたを比べて、
  あなたを慰めることができよう。
  あなたの傷は海のように大きい。
  だれがあなたをいやすことができよう。(哀歌2章13節)
  あなたの預言者たちは、あなたのために、
  むなしい、ごまかしばかりを預言して、
  あなたの繁栄を元どおりにするために、
  あなたの咎をあばこうともせず、
  あなたのために、むなしい、
  人を惑わすことばを預言した。(14節)
  道行く人はみな、あなたに向かって手を打ち鳴らし、
  エルサレムの娘をあざけって頭を振り、
  「これが、美のきわみと言われた町、
  全地の喜びの町であったのか。」と言う。(15節)
  あなたの敵はみな、
  あなたに向かって大きく口を開いて、
  あざけり、歯ぎしりして言う。
  「われわれはこれを滅ぼした。
  ああ、これこそ、われわれの待ち望んでいた日。
  われわれはこれに巡り会い、じかに見た。」と。(16節)

  主は企てたことを行ない、
  昔から告げておいたみことばを成し遂げられた。
  滅ぼして、容赦せず、
  あなたのことで敵を喜ばせ、
  あなたの仇の角を高く上げられた。(17節)
  彼らは主に向かって心の底から叫んだ。
  シオンの娘の城壁よ。
  昼も夜も、川のように涙を流せ。
  ぼんやりしてはならない。
  目を閉じてはならない。(18節)
  夜の間、夜の見張りが立つころから、
  立って大声で叫び、
  あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。
  主に向かって手を差し上げ、
  あなたの幼子たちのために祈れ。
  彼らは、あらゆる街頭で、
  飢えのために弱り果てている。(19節)

  「主よ。ご覧ください。顧みてください。
  あなたはだれに
  このようなしうちをされたでしょうか。
  女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を
  食べてよいでしょうか。
  主の聖所で、祭司や預言者が
  虐殺されてよいでしょうか。(20節)
  幼い者も年寄りも道ばたで地に横たわり、
  私の若い女たちも若い男たちも剣に倒れました。
  あなたは御怒りの日に虐殺し、
  彼らを容赦なくほふりました。(21節)
  あなたは、例祭の日のように、
  私の恐れる者たちを、四方から呼び集めました。
  主の御怒りの日に、
  のがれた者も生き残った者もいませんでした。
  私が養い育てた者を、
  私の敵は絶ち滅ぼしてしまいました。」(22節)








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2016年11月21日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌159  私が滅びうせなかったのは、主の恵みによる(哀歌3章1節〜33節)



  私は主の激しい怒りのむちを受けて
  悩みに会った者。(哀歌3章1節)

 哀歌3章「私」は、エルサレム住民の代弁者として一人称で語(新実用聖書注解・いのちのことば社)って
います。「私」はエレミヤ自身だと考えてもよいと思いますが、哀歌が、かならずしもエレミヤの作ではないとの見解もあるのです。
 いずれにしても、エルサレム崩壊の目撃者の悲惨な心には変わりありません。

  主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、(2節)
  御手をもって一日中、くり返して私を攻めた。(3節)
  主は私の肉と皮とをすり減らし、骨を砕き、(4節)
  苦味と苦難で私を取り囲んだ。(5節)
  ずっと前に死んだ者のように、
  私を暗い所に住まわせた。(6節)
  主は私を囲いに入れて、
  出られないようにし、
  私の青銅の足かせを重くした。(7節)
  私が助けを求めて叫んでも、
  主は私の祈りを聞き入れず、(8節)
  私の道を切り石で囲み、
  私の通り道をふさいだ。(9節)
  主は、私にとっては、待ち伏せしている熊、
  隠れている獅子 (10節)
  主は、私の道をかき乱し、
  私を耕さず、私を荒れすたれさせた。(11節)
  主は弓を張り、私を矢の的のようにし、(12節)
  矢筒の矢を、私の腎臓に射込んだ。(13節)
  私は、私の民全体の物笑いとなり、
  一日中、彼らのあざけりの歌となった。(14節)
  主は私を苦味で飽き足らせ、
  苦よもぎで私を酔わせ、(15節)
  私のたましいは平安から遠のき、
  私はしあわせを忘れてしまった。(17節)
  私は言った。
  「私の誉れと、
  主から受けた望みは消えうせた。」と。(18節)

 日本語でも、幸せを「甘い」味覚、不幸や哀しみを「苦々しい」と言います。平和で楽しい日には、晴れた空も雨の空も、寒さや雪でさえ、楽しむことができるでしょう。ところが、苦しみが襲うと、すべてが苦いものに感じられるのです。それが昂じると、深い穴に落ち込んだように鬱勃(うつぼつ)としてしまいます。うつがひどくなると、妄想に捕らわれたりするのも、「苦よもぎ」に酔うのと同じでしょう。

  私の悩みとさすらいの思い出は、
  苦よもぎと苦味だけ。(19節)
  私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。(20節)

★★★★★

  私はこれを思い返す。
  それゆえ、私は待ち望む。(21節)

 沈みきった心境で、それでも、この作者は、大切なことを思い出すのです。それは、「主」です。主は、私たちに良いことをしてくださる方であることを思い出すのです。

  私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
  主のあわれみは尽きないからだ。(22節)

 この言葉は大きいですね。ほんとうに、生きている者は主のあわれみを思い出す必要があります。多くの悲惨の中で、多くの隣人が死んだ中で、自分はまだ生かされていることに気付く、それは何故だろうかと気づくことが大切です。
 神がこの世界に働いておられる方である。すべてを支配しておられる方である。あわれ見深い方である。必ず、救って下さる方であると、改めて心の深いところで、確信をもつのです。

  それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。(23節)
  主こそ、私の受ける分です。」と
  私のたましいは言う。
  それゆえ、私は主を待ち望む。(24節)

  主はいつくしみ深い。
  主を待ち望む者、主を求めるたましいに。(25節)
  主の救いを黙って待つのは良い。
  人が、若い時に、くびきを負うのは良い。(26節)
  それを負わされたなら、
  ひとり黙ってすわっているがよい。(27節)
  口をちりにつけよ。
  もしや希望があるかもしれない。(28節)
  自分を打つ者に頬を与え、
  十分そしりを受けよ。(30節)
  主は、いつまでも見放してはおられない。(31節)
  たとい悩みを受けても、
  主は、その豊かな恵みによって、
  あわれんでくださる。(32節)
  主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
  思っておられない。(33節)

 主の愛に気づき、主が、意味なく試練や苦しみに人の子を突き落そうと思っておられないと気が付くのは、ほんとうに大きいですね。その時、すでに、私たちのたましいは絶望の深い井戸から外に出ているはずだからです。






posted by さとうまさこ at 10:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする