2016年11月22日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌160  私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。(哀歌3章34節〜66節)



 今ある苦難は、すべて「主の激しい怒りのむち」(3章1節)だと、詩人は叫びます。主が「私の肉と皮をすり減らし、骨を砕き、苦みと苦難で私を取り囲んだ」(4節)のです。
 そう認識しつつ、なんとかそれでも、その厳しい主の御手にすがるしかないのが「神の民」です。いえ、神を信じる者すべての最後のよりどころです。およそ、親に向かって、その罰に対し「泣き叫ばない」子供はいないでしょう。「泣き叫ぶ」のは、相手が親だからです。迷い子になって泣いている子供も、通りすがりの人に叫んでいるのではなく、親を呼び求めているのです。

 聖書が、神を親になぞらえているのは、とても本質をついていると思います。だから、親が、神のようだというわけではありません。むしろ、神が、親という存在に自覚を促しておられるといえるでしょうが。

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  地上のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、(哀歌3章34節)
  人の権利を、いと高き方の前で曲げ、(35節)
  人がそのさばきをゆがめることを、
  主は見ておられないだろうか。(36節)
  主が命じたのでなければ、
  だれがこのようなことを語り、
  このようなことを起こしえようか。(37節)
  わざわいも幸いも、
  いと高き方の御口から出るのではないか。(38節)
  生きている人間は、なぜつぶやくのか。
  自分自身の罪のためにか。(39節)

 同様に、恐ろしい「腕力」で自分たちを圧迫する敵は、主の怒りに譬えられているとはいえ、人が人を抑圧する抑圧者の傲慢を、抑圧者自身が合理化する理由はないのです。
 主は、当然、剣を振るう者を罰して下さるはずなのです。

 そのために必要なのは、悔い改めです。詩人は、民に呼びかけます。

  私たちの道を尋ね調べて、
  主のみもとに立ち返ろう。(40節)
  私たちの手をも心をも
  天におられる神に向けて上げよう。(41節)

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 悔い改めの中でも、つぶやきのような訴えが出てきます。

  「私たちはそむいて逆らいました。
  あなたは私たちを赦してくださいませんでした。(42節)
  あなたは、御怒りを身にまとい、
  私たちを追い、容赦なく殺されました。(43節)
  あなたは雲を身にまとい、
  私たちの祈りをさえぎり、(44節)
  私たちを国々の民の間で、
  あくたとし、いとわれる者とされました。」(45節)

 それでも、訴えのトーンは変わって来ています。
 
  私たちの敵はみな、
  私たちに向かって口を大きく開き、(46節)
  恐れと穴、荒廃と破滅が私たちのものになった。(47節)
  私の民の娘の破滅のために、
  私の目から涙が川のように流れ、(48節)
  私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、(49節)
  主が天から見おろして、
  顧みてくださる時まで続く。(50節)
  私の目は私の町のすべての娘を見て、
  この心を苦しめる。(51節)
  わけもないのに、私の敵となった者たちは、
  鳥をねらうように、私をつけねらった。(52節)
  彼らは私を穴に入れて殺そうとし、
  私の上に石を投げつけた。(53節)
  水は私の頭の上にあふれ、
  私は「もう絶望だ。」と言った。(54節)

 もはや、みじめな状況を訴えるのが目的ではありません。

  「主よ。私は深い穴から御名を呼びました。(55節)
  あなたは私の声を聞かれました。
  救いを求める私の叫びに
  耳を閉じないでください。(56節)

 叫び求めている声を聞いてほしいと嘆願しているのです。
 そして、事実、主からの応答があったのです。

  私があなたに呼ばわるとき、
  あなたは近づいて、
  『恐れるな。』と仰せられました。(57節)
  主よ。あなたは、
  私のたましいの訴えを弁護して、
  私のいのちを贖ってくださいました。(58節)
  主よ。あなたは、
  私がしいたげられるのをご覧になりました。
  どうか、私の訴えを正しくさばいてください。(59節)

「恐れるな」と主が仰せになったのです。主のことばに、私たちがどれほど励まされるかは、私たちだれもが経験しています。「恐れるな」という呼びかけは、現状に雄々しく立ち向かえと言っているのと同じかもしれません。神様は、人が新しい道に行くとき、迷いやたじろぎに直面する時、「恐れるな」ということばがかならず語りかけられています。
 まさに、神様の励ましがこもったこの力強い一言で、詩人は力を受けたに違いありません。

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  あなたは、私に対する彼らの復讐と、
  たくらみとをことごとくご覧になりました。(60節)
  主よ。あなたは、
  私に対する彼らのそしりと
  すべてのたくらみとを聞かれました。(61節)
  私の敵のくちびると彼らのつぶやきが、
  一日中、私に向けられています。(62節)

 詩人の訴えは続ますが、もはや、ただ、「泣き叫んでいる」のではありません。具体的な願いを神に提出しています。
それは、抑圧者への「復讐」です。

  彼らの起き伏しに目を留めてください。
  私は彼らのからかいの歌となっています。(63節)
  主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し、(64節)
  横着な心を彼らに与え、
  彼らに、あなたののろいを下してください。(65節)
  主よ。御怒りをもって彼らを追い、
  天の下から彼らを根絶やしにしてください。」(66節)






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2016年11月23日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌161  荒廃と没落(哀歌3章66節〜4章8節)



 3章で、詩人は「主に立ち帰ろう」と歌いました。主は、悲惨な状況を見ておられるのです。誰が、エルサレムに侵入して来て神殿を破壊し、神聖な器物は宝物を持ち去ったのかをご存知なのだから、主に祈り、主に復讐をしてくださるように願おうと。

  主よ。御怒りをもって彼らを追い、
  天の下から彼らを根絶やしにしてください。」(哀歌3章66節)

 ところが、詩人は、ふたたび悲惨な状況に目を向けて、悲しみに浸っています。

  ああ、金は曇り、美しい黄金は色を変え、
  聖なる石は、あらゆる道ばたに投げ出されている。(哀歌4章1節)
  純金で値踏みされる高価なシオンの子らは、
  ああ、陶器師の手で作られた土のつぼのように
  みなされている。(2節)

 神の都エルサレムの惨状、かつては黄金で輝いていた建物は失われ、シオンに住んでいる民は、誇り高く美しく見える人たちだったのでしょう。たとえば、今日なら、洗練された先進国の大都市にいる人々は、当然ある種の誇りをもっています。意識の高い良い生活は、ほかの民の憧れだったことでしょう。
 ところが、崩壊したエルサレムでは、人々の様子まで見る影もなくやつれてしまうのです。

  ジャッカルさえも乳房をあらわし、
  その子に乳を飲ませるのに、
  私の民の娘は、
  荒野のだちょうのように無慈悲になった。(3節)
  乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、
  幼子たちがパンを求めても、
  それを裂いて彼らにやる者もない。(4節)
  ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、
  紅の衣で育てられた者は、
  堆肥をかき集めるようになった。(5節)

 だれでもよい暮らしをしている時は、それが永遠に続くように見えます。しかし、戦争で生活がひっくり返され、身分も地位も意味をなさなくなったとき、王女だった者でも物乞いをするかもしれません。

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  私の民の娘の咎は、
  人手によらず、たちまちくつがえされた
  ソドムの罪より大きい。(6節)
  そのナジル人は雪よりもきよく、
  乳よりも白かった。
  そのからだは、紅真珠より赤く、
  その姿はサファイヤのようであった。(7節)

 エルサレムが覆されたのは、敵の手によります。一方、ソドムは、天災で滅びました。天災で滅びたソドムの人たちよりイスラエルの民の罪は大きいというのです。それは、イスラエルが神の選びの民であり、すでに律法をもっていて、神の御心を行なうべきだと知っていたのに、それを行なわなかったからです。
 神に人生をささげたはずのナジル人は、聖なる光に輝く存在だったはずです。

  しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり、
  道ばたでも見分けがつかない。
  彼らの皮膚は干からびて骨につき、
  かわいて枯れ木のようになった。(8節)

 そのナジル人も、道端で転がっている死体と見分けがつかないほどになっていたというのです。





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2016年11月24日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌162  底なしの悲しみ(哀歌4章9節〜4章22節)



  剣で殺される者は、
  餓え死にする者よりも、しあわせであった。
  彼らは、畑の実りがないので、
  やせ衰えて死んで行く。(哀歌4章9節)
  私の民の娘の破滅のとき、
  あわれみ深い女たちさえ、
  自分の手で自分の子どもを煮て、
  自分たちの食物とした。(10節)
  主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、
  シオンに火をつけられたので、
  火はその礎までも焼き尽くした。(11節)
  地の王たちも、世に住むすべての者も、
  仇や敵がエルサレムの門に、
  はいって来ようとは信じなかった。(12節)

 U列王記6章24節〜30節に、アラムの王ベン・ハタデに取り囲まれたサマリヤでひどい飢饉が起きたとき、二人の女が互いの子どもを煮て食べようと約束し、一人を食べた話が出ています。
 極度の飢餓は、ときに人の母性本能さえゆがめるのです。たしかにそんな地獄を見るなら、飢えて死ぬより、剣で殺される方がましかもしれません。
 ユダの崩壊は、なにより、指導者たちの罪です。エルサレムでは、預言者、祭司、貴族、王です。

  これはその預言者たちの罪、
  祭司たちの咎のためである。
  彼らがその町のただ中で、
  正しい人の血を流したからだ。(13節)

 聖書の語る指導者は、たんに政治的な行動や路線を問題にされているのではありません。彼等の罪は、この世的な政治よりむしろ、神に対する正しい姿勢を忘れたことです。自分に都合の悪い預言をするエレミヤを、穴に落としてゼデキヤもそのひとりです。

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  彼らは血に汚れ、
  盲人のようにちまたをさまよい、
  だれも彼らの着物に触れようとしなかった。(14節)
  「あっちへ行け。汚れた者。」と
  人々は彼らに叫ぶ。
  「あっちへ行け。あっちへ行け。さわるな。」
  彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。
  諸国の民の中で人々は言う。
  「彼らはもう立ち寄ってはならない。」(15節)
  主ご自身も彼らを散らし、
  もう彼らに目を留めなかった。
  祭司たちも尊ばれず、
  長老たちも敬われなかった。(16節)
  それに、私たちの目は、衰え果てた。
  助けを求めたが、むなしかった。
  私たちは見張り所で、見張った。
  救いをもたらさない国の来るのを。(17節)
  私たちの歩みはつけねらわれて、
  私たちは広場を歩くことができなかった。
  私たちの終わりは近づいた。
  私たちの日は満ちた。
  私たちの終わりが来たからだ。(18節)
  私たちを追う者は、大空の鷲よりも速く、
  山々の上まで追い迫り、
  荒野で私たちを待ち伏せた。(19節)
  私たちの鼻の息である者、

 なにが辛いと言って、自分が信じていた人や信念が虚像に過ぎなかったと失望することではないでしょうか。純真な子供が成長するにつれ、親や教師や友人に失望することがあります。ある種の理想化をしていたものが、幻滅に変わるときです。とはいえ、彼等もその「身内」を、自分たちと敵対する者たちから、蔑まれたたら「痛い」のではないでしょうか。
 敗戦を経験した日本でも、そのような複雑な葛藤を経験した人々が大ぜいいたようです。たしかに「愚かな戦争に」国民を導いた指導者たちを憎むのですが、それでも、彼等を弁護する者、心から同情する人が残されます。
 指導者と民はある意味、同じ命で結ばれているので、「戦犯になった者も悪いが、彼等を許していた国民も悪い」と言われると、落ち着かなくなるのです。
 
  主に油そそがれた者までも
  彼らの落とし穴で捕えられた。
  「この者のおかげで、諸国の民の中でも
  私たちは生きのびる。」と
  私たちが言った者なのに。(20節)

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 しかし、ユダの不幸に加担したエドムについても、主は見ておられるのです。
 いまは、隣国の不幸に手を打って喜んでいても、咎の杯は巡っているのです。涙の目をぬぐいながら、ユダの民が叫んでいる姿が見えるようです。

  ウツの地に住むエドムの娘よ。楽しみ喜べ。
  だが、あなたにも杯は巡って来る。
  あなたも酔って裸になる。(21節)
  シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。
  主はもう、あなたを捕え移さない。
  エドムの娘。主はあなたの咎を罰する。
  主はあなたの不義をあばく。(22節)









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2016年11月25日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌163  神を呼ぶ(哀歌5章1節〜10節)



 人の痛みの中でも、一番大きなものは「足もとがひっくり返る」ことではないでしょうか。物理的にも地震のようなもので足元が揺らぐのは恐怖です。飛行機になんとなく不安を覚えるのも、やはり「地に付いた物」ではないからでしょう。
 しかし、見えるもの以上に恐ろしいのは、「存在の基盤」を失うことではないでしょうか。生活の基盤です。テリトリーだったり、所属集団だったり、自分がそこからやって来た家族だったり故郷だったり、民族だったりしますが、そのようなアイデンティティの上に、人は生きています。

 平和な時には意識しませんが、ですから、第二次大戦を経験した人はみな、「戦争はコリゴリ」というのです。国が滅びそうになった恐怖は、個人の小さな努力も幸せもあっという間に押し流してしまいます。哀歌は、国を失った民の、根源的な恐怖が全篇をおおっています。
 どうにもならない時になって、初めて、だれでも「神様!」と叫ぶことでしょう。
 まして、ユダ王国はイスラエル王国とともに、神の選びの民の国です。神がお立てになった国で、特別だと彼らは思っていたに違いありません。

 いったい、自分たちの神はどうしてこんなことをなさるのかと、泣き叫ぶのです。

  主よ。私たちに起こったことを思い出してください。
  私たちのそしりに目を留めてください。
  顧みてください。(哀歌5章1節)
  私たちの相続地は他国人の手に渡り、
  私たちの家もよそ者の手に渡りました。(2節)
  私たちは父親のないみなしごとなり、
  私たちの母はやもめになりました。(3節)
  私たちは自分たちの水を、金を払って飲み、
  自分たちのたきぎも、代価を払って
  手に入れなければなりません。(4節)

 私たちは、このような境遇の人々を、現在でも見ます。難民問題は、まさに「住む場所を失った人々」の苦しみを私たちに付きつけて来ます。
 
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  私たちはくびきを負って、
  追い立てられ、
  疲れ果てても、休むことができません。(5節)
  私たちは足りるだけの食物を得ようと、
  エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。(6節)

 ふつうは、人々は父祖の地で父祖伝来の平和な生活を継続する時、「安心する」のです。開墾も冒険も、「父祖の地」という基地があって、はじめて挑戦し甲斐のある夢になりうるのです。
 追い立てられて旅する生活は、苦しいだけです。
 アブラハムは、ハランから見知らぬ地カナンへやってきました。しかし、彼は、戦争から逃げて来たのではありません。神さまのことばに従って行動したのです。未知の土地への不安はあったかもしれませんが、つねに神様が導いておられたのです。

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  私たちの先祖は罪を犯しました。
  彼らはもういません。
  彼らの咎を私たちが背負いました。(7節)
  奴隷たちが私たちを支配し、
  だれも彼らの手から
  私たちを救い出してくれません。(8節)
  私たちは、荒野に剣があるために、
  いのちがけで自分の食物を得なければなりません。(9節)
  私たちの皮膚は、飢えの苦痛のために、
  かまどのように熱くなりました。(10節)

 もちろん、アブラハムの子孫であるユダヤの民は、「主」を思い出すのです。やっぱり、主を呼び求めるしかないからです。けれども、これは、ある意味、光を見る行為です。
 神は、救って下さるのですから。







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2016年11月27日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌164  神の民として精錬されるために(哀歌5章11節〜22節)



  女たちはシオンで、
  おとめたちはユダの町々で、
  はずかしめられました。(哀歌5章11節)
  首長たちは彼らの手でつるされ、
  長老たちも尊ばれませんでした。(12節)
  若い男たちはひき臼をひかされ、
  幼い者たちはたきぎを背負ってよろめき、(13節)
  年寄りたちは、城門に集まるのをやめ、
  若い男たちは、楽器を鳴らすのをやめました。(14節)
  私たちの心から、喜びは消え、
  踊りは喪に変わり、(15節)
  私たちの頭から冠も落ちました。
  ああ、私たちにわざわいあれ。
  私たちが罪を犯したからです。(16節)
  私たちの心が病んでいるのはこのためです。
  私たちの目が暗くなったのもこのためです。(17節)
  シオンの山は荒れ果て、
  狐がそこを歩き回っているからです。(18節)

 戦争の悲惨は、時代を問わず、世界共通です。女たちが辱めを受けるのも、子供や老人が塵芥のように捨て去られ、殺される。敗残の兵は逃げまどい、惨殺される。王や将軍は戦死するか暗殺されるのです。
 戦争に「Win Win」の関係はありません。勝敗や上下をはっきりさせるのが戦争なのです。一度は勝った王も国も、やがて滅びます。うまく隠れおおせて戦禍を免れた人々も必ず死にます。
そこで、神を知らない民は嘆くしかありません。「盛者必衰」「諸行無常」だと。

 けれども、哀歌で歌われているのは、このような戦争の一般的な側面ではないように思います。
 ユダの人々も、自分たちの上に戦争の悲惨さのすべてがあることを驚き悲しんだのは事実です。けれども、すでに北王国イスラエルがアッシリヤによって攻め滅ぼされた現実があります。また、ユダ王国自身も、当時の世界で「専守防衛」ではあり得なかったのです。神の御命令は、そもそも、カナンを取るときから、「罪に満ちているカナンの7部族を滅ぼしては入れ」と言うものでした。罪に満ちた世界に神の御心を実現する国を立てるためには、「罪」と妥協してはならなかったのです。この限りにおいて、神は「異邦の民」の虐殺も許されているのです。そのために、ヨシュア率いるイスラエルの民のために、神がかり的な奇蹟を行なわれ(ヨルダン川渡河、エリコ攻略など)一方的に神の力を着せて下さったのです。
 その意味を、イスラエルの民は、知っていたはずでした。
 彼等は、自分たちと契約を結んでくださった神――アブラハム、イサク、ヤコブの神のご命令を厳格に行わなければならないと、思っていたはずです。

 ところが、彼等は、「神の選びの民」であり続けることはできませんでした。

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 ユダ王国の徹底的な崩壊、神殿もエルサレムの城壁もすべて失い、王も祭司もバビロン捕囚に行くという現実の前で、初めて彼らは、神の御前に、たましいの底から悔い改めたのではないかとおもわれるほどです。

  しかし、主よ。
  あなたはとこしえに御座に着き、
  あなたの御座は代々に続きます。(19節)
  なぜ、いつまでも、
  私たちを忘れておられるのですか。
  私たちを長い間、捨てられるのですか。(20節)
  主よ。あなたのみもとに帰らせてください。
  私たちは帰りたいのです。
  私たちの日を昔のように新しくしてください。(21節)
  それとも、
  あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。
  きわみまで私たちを怒られるのですか。(22節)

 「一皮(ひとかわ)むける」ということばがあります。表現としては簡単ですが、じっさいには容易なことではありませんね。学校に行ったり、万巻の書を読んだり、良い師や友から学ぶことはできます。それでも「一皮むける」ものではありません。包丁で皮をそぎ落とすように傷をつけて体や心を剥かれて初めて、人は脱皮できるのです。
 信仰においては、そのような厳しい目に遭いたくないと思うのですが、「試練」によってしか、神に近づけないほど、私(たち)の罪は染みついているのかもしれないと、哀歌は改めて気づかせてくれるのです。


    






posted by さとうまさこ at 11:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする