2016年11月05日

エレミヤ書145 万国を打った鉄槌――主(エレミヤ50章17節〜27節)



 イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリヤの王がこれを食らったが、今度はついに、バビロンの王ネブカデレザルがその骨まで食らった。(エレミヤ書50章17節)
 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはアッシリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国を罰する。(18節)

 大きな権力が「あっという間に」地に落ちる事実は、歴史にはいくらでも記されています。私たちがその「入り口」として学ぶ「歴史」とは、第一に、政治権力の消長だからです。
 聖書のなかでも、エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった超大国の波を見ることができます。たんに国の名前が変わり、権力者が交代しているだけではありません。世界史における変動は、じつにダイナミックです。国境線やそこを支配する民族までが、替わるのです。
 2千年以上も昔の「お話し」ではないですね。20世紀だけをとっても、国境は書きかえられ、巨大な権力が一瞬にして倒壊するのを、私たちは、今でも見ているのです。

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 ベルリンの壁が崩される映像は、世界中あまねく報じられました。米ソ二つの超大国、資本主義と共産主義、自由と平等、保守と革新といったことががこの時代の動かしがたい壁を築いていて、それは永遠であるかのように思われていました。それが、突然崩れたのです。
 究極の英雄、民衆のアイドルだった人たちの銅像が引き倒される映像も、数えきれないほど見ました。スターリンやレーニンは「ただの人」だったのではありません。もっと大きな「罪を犯した」英雄、人間の自己肥大の象徴だったのだと、ようやく気付かされました。
 「自分たちこそ神だ」「世界を作り、変え得る最高の存在だ」と、神を否定した人たちでした。

 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで、その願いは満たされる。(19節)
 その日、その時、――主の御告げ――イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ。」(20節)

  「メラタイムの地、ペコデの住民のところに
  攻め上れ。
  彼らを追って、殺し、彼らを聖絶せよ。
  ――主の御告げ――
  すべて、わたしがあなたに命じたとおりに、

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  行なえ。」(21節)
  「国中には戦いの声、大いなる破滅。(22節)
  万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。(23節)

 この言葉は、今も生きています。「万国を打った鉄槌」のように見える勢力が、現れては消えるからです。

  バビロンよ。
  わたしがおまえにわなをかけ、
  おまえは捕えられた。
  おまえはそれを知らなかった。
  おまえは見つけられてつかまえられた。
  おまえが主に争いをしかけたからだ。(24節)

 ひとたび巨大権力を築いた者たちは、その存続拡大に腐心します。最高の頭脳と知識と情報と富の限りを投入して、自己拡大しようとするのです。ひと時も立ち止まることはできません。「立ち止ることは死だ。敗北だ」「昨日より今日の方がより良くなるべきだ」「永遠に繁栄するために」「永遠に生きるために」「あなたならそれができるはずだ」「かならずできるから」
 人は聖書のことばでさえ、いつの間にか自分の「計画」のアクセルに組み込んでしまいます。「繁栄の神学」があたかも神の御心であるかのように扇動するのです。

 どのような繁栄も、神がワナをかけ、捕えられるときには、逃れることができないと主は仰せです。
 「主に争いをしかけた」なんてことはない、と泣いて訴えても手遅れです。
 主が、カルデヤ人の国に対して行なわれたことを、見る必要があります。

  主はその倉を開いて、
  その憤りの武器を持ち出された。
  それは、カルデヤ人の国で、
  万軍の神、主の、される仕事があるからだ。
  四方からそこに攻め入れ。その穀物倉を開け。
  これを麦束のように積み上げ、
  これを聖絶して、何一つ残すな
  その雄牛をみな滅ぼせ。ほふり場に下らせよ。
  ああ。哀れな彼ら。
  彼らの日、その刑罰の時が来たからだ。」(27節)








posted by さとうまさこ at 10:41| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする