2016年11月07日

エレミヤ書147  バビロンの完全な滅亡へ(エレミヤ51章1節〜19節)



  主はこう仰せられる。
  「見よ。わたしはバビロンとその住民に対し、
  破壊する者の霊を奮い立たせ、(エレミヤ書51章1節)
  他国人たちをバビロンに送る。
  彼らはこれを吹き散らし、その国を滅ぼす。
  彼らは、わざわいの日に、
  四方からこれを攻める。」(2節)

 最期にもう一度、バビロンへの預言です。他国人がバビロンを破壊するために送られてくるのです。

  射手には弓を張らせ、
  よろいを着けてこれを襲わせよ。
  そこの若い男を惜しむことなく、
  その全軍を聖絶せよ。(3節)
  刺し殺された者たちが、カルデヤ人の国に倒れ、
  突き刺された者たちが、そのちまたに倒れる。(4節)
  しかし、イスラエルもユダも、
  その神、万軍の主から、決して見捨てられない。
  射手には弓を張らせ、
  よろいを着けてこれを襲わせよ。
  そこの若い男を惜しむことなく、
  その全軍を聖絶せよ。(3節)
  刺し殺された者たちが、カルデヤ人の国に倒れ、
  突き刺された者たちが、そのちまたに倒れる。(4節)
  しかし、イスラエルもユダも、
  その神、万軍の主から、決して見捨てられない。
  彼らの国は、
  イスラエルの聖なる方にそむいた罪に
  満ちていたが。(5節)
  バビロンの中から逃げ、
  それぞれ自分のいのちを救え。
  バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。
  これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。(6節)

 エレミヤの多くの預言の最後は、バビロンへの審判です。これは当時のユダ王国を取り巻く歴史を考えれば、しぜんなことのように思えます。イスラエルはカナンに入るときから、王国の歴史を通して、周辺国との紛争に悩まされたきました。神が選びの民をカナンに入れられるご計画は、神の民を悩ませる戦いの中でこそ、神の民が「精錬」されていくためであったかも知れないとの見方もできます。しばしば、周辺の民の信仰と同化しそうになるイスラエルを、「真の神の民」へと、脱皮させられるために必要な戦いだったとも考えられます。
 しかし、神が、神の民をお造りになるプロセスは、生やさしいものではないと改めて思わせられるのです。

★★★★★

  バビロンは主の御手にある金の杯。
  すべての国々はこれに酔い、
  国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。(7節)
  たちまち、バビロンは倒れて砕かれた。
  このために泣きわめけ。
  その痛みのために乳香を取れ。
  あるいはいやされるかもしれない。(8節)

  私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、
  それはいやされなかった。
  私たちはこれを見捨てて、
  おのおの自分の国へ帰ろう。
  バビロンへの罰は、
  天に達し、大空まで上ったからだ。(9節)
  主は、私たちの正義の主張を明らかにされた。
  来たれ。私たちはシオンで、
  私たちの神、主のみわざを語ろう。(10節)

 イスラエルを精錬する側の「石」となった周辺国は、けっきょく罰せられるのです。すべて、神の御計画であったので滅ぼされるのです。
 ここには、現代の私たちが考える「共存共栄」「ウィン・ウィン」の関係は成立しなかったのです。
 諸国は、繁栄の国バビロンに擦り寄って、甘い汁を吸い取ろうとしました。バビロン自身が主によって滅ぼされるとき、そびえたっていた城壁も伝説も富も、跡形もなく持ち去られるのです。
 敵は北東の大国メディヤでした。

  矢をとぎ、丸い小盾を取れ。
  主はメディヤ人の王たちの霊を
  奮い立たせられた。
  主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。
  それは主の復讐、その宮のための復讐である。(11節)
  バビロンの城壁に向かって旗を揚げよ。
  見張りを強くし、番兵を立てよ。伏兵を備えよ。
  主ははかりごとを立て、
  バビロンの住民について語られたことを
  実行されたからだ。(12節)
  大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。
  あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。(13節)

★★★★★

  万軍の主はご自分をさして誓って言われた。
  「必ず、わたしはばったのような大群の人を
  あなたに満たす。
  彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」(14節)
  主は、御力をもって地を造り、
  知恵をもって世界を堅く建て、
  英知をもって天を張られた。(15節)
  主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。
  主は地の果てから雲を上らせ、
  雨のためにいなずまを造り、
  その倉から風を出される。(16節)

 人間同士の戦いでは勝利者は存在しないのではないでしょうか。多くの兵馬や黄金を使って支配の頂点に立ったとしても、それも、主がお許しになっている間のできごとです。「主がお造りになった地・世界の中にいて」「主が張られた天の下にいて」、雨風一つ支配できない人間は、自分の存在が誰によって許されているのかを、自覚しなければいけないのでしょう。たとえ、バビロンの王であっても。

  すべての人間は愚かで無知だ。
  すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。
  その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。(17節)
  それは、むなしいもの、物笑いの種だ。
  刑罰の時に、それらは滅びる。(18節)

 鋳物を鋳るのは一つの技術であり、鋳物師は、その技術で生活を立てています。さとうはの鋳物をつくる仕事を尊重しています。鍋釜から、剣、盾や鉾など人は鋳物師の技術で生活を立ててきました。しかし、どんなに洗練された技術で造っても、どれほど神秘的な形を刻んでも、しょせん鋳物はい鋳物です。そこに命はなく、まして神が手で刻んだもののなかにおられるわけもありません。
 鋳物の原材料はもちろん、鋳物師や、彼に命じて造らせた王侯でさえ、主がお造りになったのです。
 イスラエルの人たちに、主は、ことあるごとに呼びかけておられます。

  ヤコブの分け前はこんなものではない。
  主は万物を造る方。
  イスラエルは主ご自身の部族。
  その御名は万軍の主である。(19節)









posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする