2016年11月14日

Coffee Breakエレミヤ書152  預言者の必要(エレミヤ書1章5節)



 エレミヤ書は預言者について、改めて考えさせます。預言者(予言者)とはなにか。どのような仕事だったのか、なぜ、そのような存在が求められたのか。

 予言というものは、おそらく人類が文明をもった時に生まれ、以来途絶えることがなかったと思われます。人は、「予測をする」動物です。「預言」を知りたいと願う存在です。未来やまだ見えない世界を覗き見ようとするのです。今目の前にあることだけを見て、その場その場で適応する行動や思考には「知性」はないわけです。まだ、見えない未来、ここではなく「どこかほかの場所」について思いを馳せることができるのが人間を他の動物と分けている分岐点ではないでしょうか。

 人間は未来に対して不安を抱きます。たんに経済的、政治的、社会的に「先が見えない」といったことだけではないようで、億万長者であっても、権力を一身に集めた独裁者であっでも、子や孫・親族、多くの崇拝者にとりかこまれていても、不安にとらえられます。豪華な葬儀や壮麗な墓など、古来の権力者や金持ちが死後を飾ろうとするのは、そうした不安の表れではないでしょうか。
 でも、恥じることではないと思います。それこそ、人間だけが抱く不安だからです。それは、人間だけが、「自分がどこから来て、どこへ行くのだろう」と自問できる能力です。

 そのような能力は、じつは、自分がいるのは、「今ここだけ」ではなく、やってきた場所と行くべき場所が存在するのだと、「知っている」ためのように思います。
 聖書は、それが、何であるかを教えている書物です。

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 このブログにもリンクを載せて下さっている佐々木正明師の著作「神の国」に、あらゆる動物の中でも、祈るのは人間だけであると明言されています。

 たしかに、賢い犬や猫、心をいやしてくれるたくさんの動物がいます。舌を巻くような方法で繁殖したり、移動したり、擬態したりする動物もいます。誰に命じられなくても、とくに学校に行かなくても、時期が来れば繁殖行動をとり、雌を呼ぶために特有の鳴き声を出し、恋を育むために種特有のダンスをします。でも、彼等は「自分たちはどこから来てどこへ行くのだろう」と自問することがあるのでしょうか。
「神様。おはようございます」「神さま、今日も良い餌に巡り合いますように。おいしい水が飲めますように」と祈ることがあるのでしょうか。
 それは、「ない」というのが、定説ですね。

 その理由を、「神の国」は次のように説明しています。

 神に似せられて造られた人間  神の自己表現の中で、とくにきわ立っているのは、人間の創造です。驚くべきことに、人間は神の姿にかたどって造られたのです。もちろん、これは神に手足があるということではありません。人間は、霊的な存在者である神に似せて、霊的な存在として造られたということです。たんに、犬や猫のように、生まれ、食べ、繁殖し、死ぬ、動物的な体と命だけではなく、神と交わることができるように、神と同じ性質の霊を与えられて造られたのです。そのため、すべての動物の中で、人間だけが、神を礼拝したいという心、祈りたいという気持を、本能として持っているのです。そういうわけで人間は、たとえ、どんなに進んだ文明の中に住んでいても、未開の世界に生きていても、すべて、例外(れいがい)なく宗教を持っているのです。 (創世記1:26−27、2:7)
     ペンテコステ宣教学→優しい神の国講座
       http://www.geocities.jp/tillich37/

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 明日起こる事を知りたいというのは、すべての人間の心の底から出てくる、消すことのできない願いです。
 口では「神などいない」と、豪語しているような人でも、一度も「祈ったことがない」人はいないでしょう。自分の行先は、「死であって、死んだら終わりだ」ということ自体が、すでに、死を見つめないではいられない人間の、不安を表わしていないといえるでしょうか。
 動物は、死を思っているようには見えません。もし、動物が死を思っていたら、食物連鎖によって成り立つ自然界で、どうして、毎日ゆうゆうと空を飛んだり、森を徘徊したり、氷の上でアザラシの群れがやって来るのを一か月も待つことができるでしょう。望みの餌が現れなかったらシロクマも餓死するのです。森やサバンナが開発され、餌になる動物がいなくなってもライオンは、痩せて力尽きるまで獲物を捜し歩くのです。
 
 人間は、それほどいさぎよくはできません。また、その必要もありません。祈ることができるからです。祈れば、「聞いていただける」と思うからです。
 いえ。「わたしに聞け」と、じつは、私たちの造り主・親にあたる方。・神ご自身が仰せなのです。

 どうしても、人が聞かない時、それ以上、見過ごすことができない時、神は、預言者をお立てになって、「神の民」を目ざめさせようとされた、そんな気がするのです。

 エレミヤが召された時、神は仰せです。

 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、
 あなたを知り、
 あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
 あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ書1章5節)








posted by さとうまさこ at 12:59| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする