2016年11月16日

Coffee Breakエレミヤ書154  エレミヤ書から哀歌へ(哀歌1章1節〜7節)



  ああ、人の群がっていたこの町は、
  ひとり寂しくすわっている。
  国々の中で大いなる者であったのに、
  やもめのようになった。
  諸州のうちの女王は、
  苦役に服した。(哀歌1章1節)
  彼女は泣きながら夜を過ごし、
  涙は頬を伝っている。
  彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。
  その友もみな彼女を裏切り、
  彼女の敵となってしまった。(2節)
  ユダは悩みと多くの労役のうちに
  捕え移された。
  彼女は異邦の民の中に住み、
  いこうこともできない。
  苦しみのうちにあるときに、
  彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。(3節)
  シオンへの道は喪に服し、
  だれも例祭に行かない。
  その門はみな荒れ果て、
  その祭司たちはうめき、
  おとめたちは憂いに沈んでいる。
  シオンは苦しんでいる(4節)

 旧約聖書には、エレミヤ書に続いて哀歌がおかれています。哀歌は、詩歌ですから、預言書と同じ分類にはいっていることに違和感を持つ方もいるのではないでしょうか。さとうもその一人です。内容も、最初から終わりまで「嘆きの歌」です。預言は、神のことばが預言者の口を通して、多くの人たちに伝えられるためにあります。社会的な機能があるというべきでしょう。

 事実、この順序は、70人訳の伝統に倣い、エレミヤ書の後に置かれているのであって、ヘブル語聖書では、第3部諸書の中に含まれ、ルツ記、雅歌、伝道者の書、エステル記の4書とともに、一まとまりを成す形で置かれている(新実用聖書注解・いのちのことば社)とのことです。
 また、著者がエレミヤであるかどうかも、伝統的にそう考えられてきたのであって、本書自体には、著者が誰かを示す箇所はない。エレミヤが著者である可能性を否定する必要はないが、積極的に主張する根拠はない(同注解書)そうです。

 学術的な解釈は、とりあえず、聖書読者にとって、横における問題だと思います。何といっても、この書物は聖書に入れられたのです。聖書の構成については、人が編集したとしても、背後に神が働かれてそのようにされたのです。

★★★★★ 

 哀歌は、歌ですから、預言の記録であるエレミヤ書とは、全然趣が異なります。
 全篇、詩人の嘆きで貫かれています。
 文学的にもヘブル語アルファベットとの絡みで特別な技巧が凝らされているそうです。主観的な心情の吐露であっても、詩が「文学」にまで凝集するためには、感情のおもむくまま「叫んだ」言葉の連なりではあり得ないのです。そうであれば、せっかくの詩人の心も充分に伝わらない可能性があるのです。
 編集に、仮に他人のペンが関わっていても、その詩歌に真実を見ることはできます。
ユダ王朝末期、崩壊したエルサレムの中にすわりこんで神の都の悲惨な姿を嘆いた人は、事実、たくさんいたに違いありません。

 エレミヤの預言に耳を貸さなかった人々も、現実に、壊れた城壁を見て、捕囚に連れ去られる自分を考えたはずです。それが、哀歌だと思うのです。

  彼女の仇がかしらとなり、
  彼女の敵が栄えている。
  彼女の多くのそむきの罪のために、
  主が彼女を悩ましたのだ。
  彼女の幼子たちも、仇によって
  とりことなって行った。(5節)
  シオンの娘からは、すべての輝きがなくなり、
  首長たちは、牧場のない鹿のようになって、
  追う者の前を力なく歩む。(6節)
  エルサレムは、悩みとさすらいの日にあたって、
  昔から持っていた自分のすべての宝を思い出す。
  その民が仇の手によって倒れ、
  だれも彼女を助ける者がないとき、
  仇はその破滅を見てあざ笑う。(7節)









posted by さとうまさこ at 10:40| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする