2016年11月19日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌157  悔改めの歌としての哀歌(哀歌2章1節〜12節、エレミヤ書19章9節)



 哀歌は神への祈りの書である。ユダヤ人は、現在でもアブの月の9日には、神殿の滅亡を悲しみ、断食をして本書を朗読する。(新実用聖書注解・いのちのことば社)とのことです。
 納得できますね。だれでも、エレミヤ書を読んだ後で、哀歌を読むのは、滅亡するユダ王国と神の都エルサレムの悲惨を二度見るようで耐え難いはずです。それを「祈りの書」とすれば、また見方が変わってきます。

  ああ、主はシオンの娘を
  御怒りで曇らせ、
  イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、
  御怒りの日に、
  ご自分の足台を思い出されなかった。(哀歌2章1節)
  主は、
  ヤコブのすべての住まいを、容赦なく滅ぼし、
  ユダの娘の要塞を、憤って打ちこわし、
  王国とその首長たちを、地に打ちつけて汚された。(2節)
  燃える怒りをもって、
  イスラエルのすべての角を折り、
  敵の前で、右の手を引き戻し、
  あたりを焼き尽くす燃える火で、
  ヤコブを焼かれた。(3節)

★★★★★

 哀歌は、ただ「悲惨」「苦難」にあった者の、嘆きがあるだけではありません。そうであったなら、のちに、形の整った詩歌として整えられ、祈りの歌としてもちいられるはずがありません。
 私はヘブル語聖書を読むような素養はまったくないのですが、この歌は、ヘブル語の詩歌の美しい形式を踏んでいるそうです。各節の頭文字がアルファベッドの順番になっているのです。

  主は敵のように、弓を張り、
  右の手でしっかり構え、
  仇のように、
  いとしい者たちのすべてを虐殺し、
  シオンの娘の天幕に
  火のように憤りを注がれた。(4節)
  主は、敵のようになって、
  イスラエルを滅ぼし、
  そのすべての宮殿を滅ぼし、
  その要塞を荒れすたらせて、
  ユダの娘の中にうめきと嘆きをふやされた。(5節)
  主は、畑の仮小屋のように、
  ご自分の幕屋を投げ捨てて、
  例祭の場所を荒れすたらせた。
  主はシオンでの例祭と安息日とを忘れさせ、
  激しい憤りで、王と祭司を退けられた。(6節)
  主は、その祭壇を拒み、聖所を汚し、
  その宮殿の城壁を敵の手に渡された。
  すると、例祭の日のように、
  彼らは、主の宮でほえたけった。(7節)

 たとえ、翻訳聖書を読む者でもわかることがあります。それは、哀歌には、深い悔改めがあることです。滅びに直面した人たちは、その悲惨がどこから来たものが自覚しています。たしかに実行犯はバビロンです。異邦人がやって来て、殺し、壊し、奪ったのですが、バビロンにそうさせられたのは主ご自身なのです。主ご自身が、決心されて、その手順までお決めになったと、歌われています。

  主は、シオンの娘の城壁を荒れすたらせようと決め、
  測りなわでこれを測り、
  これを滅ぼして手を引かれなかった。
  塁と城壁は悲しみ嘆き、
  これらは共にくずれ落ちた。(8節)
  その城門も地にめり込み、
  主はそのかんぬきを打ちこわし、打ち砕いた。
  その王も首長たちも異邦人の中にあり、
  もう律法はない。
  預言者にも、主からの幻がない。(9節)
  シオンの娘の長老たちは、地にすわって黙りこみ、
  頭にはちりをまき散らし、身には荒布をまとった。
  エルサレムのおとめたちは、
  その頭を地に垂れた。(10節)

★★★★★

  私の目は涙でつぶれ、
  私のはらわたは煮え返り、
  私の肝は、私の民の娘の傷を見て、
  地に注ぎ出された。
  幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。(11節)
  彼らは母親に、
  穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、
  町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、
  母のふところで息も絶えようとしている。(12節)

 ゼデキヤ王がネブカデレザルに抵抗したとき、エルサレムは二年以上敵に取り囲まれて、兵糧攻めにあいました。飢えが民を襲ったのです。大人はとにかく、事情のわからない子供たちは泣いて死んでいくしかありません。
 籠城のなかで兵士や民が餓死するエピソードは、世界史の中で案外たくさんありますが、だれも、そのような目に遭いたいとは思いませんね。極限まで飢えると、人は仲間の屍体を食べたり、殺してでも食べようとしたりするようになるとの記録があります。
 この哀歌にも、母親が子供を殺して食べる場面を彷彿させる箇所があります。(2章20節) エレミヤの預言でも、主は、そのようなことを起こされると明言しています。

 また、わたしは、包囲と彼らの敵、いのちをねらう者がもたらす窮乏のために、彼等に自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いにその友の肉を食べ合う。(エレミヤ書19章9節)

 これほどの悲惨が実現するまで、人は、悔い改めないということでしょうか。
 じっさいには、これほどの悲惨があることがわかっていながら、人は同じ過ちを何度も繰り返してきたと思うのです。






posted by さとうまさこ at 10:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする