2016年11月20日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌158  陶器師の手のわざ(哀歌2章13節〜22節、イザヤ書45章9節〜13節、ローマ人への手紙7章15節〜)



 バビロン捕囚の悲惨さを見るにつけ、どうしてこのようなことが起ったのだろう。どうして、またそれを文書にして残し、預言書に加えて、哀歌を聖書に置かれたのだろうと考えずにはいられません。
 神が養い育てられたイスラエル民族、神がお立てになったイスラエル王国の特別な歴史を考えるとき、ほんとうに心の底深く、「主は陶器師」と納得するしかないと私は思っています。(イザヤ書45章9節)
 しかし、イザヤの預言は、すぐ次の箇所で、はっきりと捕囚の民の解放を宣告しています。(同13節)
 
 主は、宇宙万物、私たち人類、すべてのありとあらゆるものをお造りになっただけではなく、私たちを楽園から追放されただけでなく、私たちを救うご計画をお持ちだった・・。それにしても、そのご計画は恐ろしく、ダイナミックで、人の想像を超えている。

 神様なら、最初からイメージ通りの「正しい人類」をお造りになることも出来たでしょうに。神に似せて造られた私たちなら、最初からアダムとエバに、悪魔が近づかないようなワクチンを接種済みにしておいてくださればよかったのに。
 もちろん、すべては可能であったはずですが、神様が悪魔にそそのかされる人間をお造りになったのは、あえて、「わかっていて」そうされたことだったのでしょう。
 アッセンブリ教団・西九州教会の佐々木正明牧師は、その著書「神の国」で次のように解説しています。

 神が人間をお造りになったとき、どうして、罪を犯さない人間にしなかったのですかとたずねる人がいます。たしかに神は、善悪を選択することができる自由意思を持つものとして、人間をお造りになりになりました。自由意思を持っていない存在は神に似たものではなく、単なるロボットです。とくに、善悪の問題に関して言えば、始めから、善以外は選ぶことが出来ないように、造られてしまったとするならば、その善は真の善ではありません。善と悪のふたつがあって、どちらでも選ぶことができるという中で、善を選んでこそ、初めて善となるのです。ですから、自由意思を持った人間は、「欠陥製品」ではなく、最高作品でした。また、神が人間にお与えになった善悪選択の試みは、人間が真に神に似た霊的な存在として、完成されるためには、絶対になくてはならない条件だったのです。(創世記3:1−24)

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 悪魔の試みは、しかし、楽園を追放されてよけい熾烈になったのです。なにしろ悪魔はこの世の支配者なのです。
キリストの熱心な弟子パウロでさえ、言うのです。
 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。(略) ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」(ローマ人への手紙7章15節〜)

 神は、人間がそのような者であることをご存知で、だから、陶器師のように、何度も土を練り直し、あるいは捨て、あるいは潰して成型し直そうとされ、容赦のない強い意思をもって、イスラエルの民を「痛めつける」必要があったのでしょう。
 でも、それは、永遠の滅びではなかった――と、知ることができる21世紀の私たちは幸いです。
それを知ったうえで読む哀歌は、それでも「救い」が感じられる、そんな気がします。

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  エルサレムの娘よ。
  私はあなたを何にたとえ、
  あなたを何になぞらえよう。
  おとめ、シオンの娘よ。
  私は何にあなたを比べて、
  あなたを慰めることができよう。
  あなたの傷は海のように大きい。
  だれがあなたをいやすことができよう。(哀歌2章13節)
  あなたの預言者たちは、あなたのために、
  むなしい、ごまかしばかりを預言して、
  あなたの繁栄を元どおりにするために、
  あなたの咎をあばこうともせず、
  あなたのために、むなしい、
  人を惑わすことばを預言した。(14節)
  道行く人はみな、あなたに向かって手を打ち鳴らし、
  エルサレムの娘をあざけって頭を振り、
  「これが、美のきわみと言われた町、
  全地の喜びの町であったのか。」と言う。(15節)
  あなたの敵はみな、
  あなたに向かって大きく口を開いて、
  あざけり、歯ぎしりして言う。
  「われわれはこれを滅ぼした。
  ああ、これこそ、われわれの待ち望んでいた日。
  われわれはこれに巡り会い、じかに見た。」と。(16節)

  主は企てたことを行ない、
  昔から告げておいたみことばを成し遂げられた。
  滅ぼして、容赦せず、
  あなたのことで敵を喜ばせ、
  あなたの仇の角を高く上げられた。(17節)
  彼らは主に向かって心の底から叫んだ。
  シオンの娘の城壁よ。
  昼も夜も、川のように涙を流せ。
  ぼんやりしてはならない。
  目を閉じてはならない。(18節)
  夜の間、夜の見張りが立つころから、
  立って大声で叫び、
  あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。
  主に向かって手を差し上げ、
  あなたの幼子たちのために祈れ。
  彼らは、あらゆる街頭で、
  飢えのために弱り果てている。(19節)

  「主よ。ご覧ください。顧みてください。
  あなたはだれに
  このようなしうちをされたでしょうか。
  女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を
  食べてよいでしょうか。
  主の聖所で、祭司や預言者が
  虐殺されてよいでしょうか。(20節)
  幼い者も年寄りも道ばたで地に横たわり、
  私の若い女たちも若い男たちも剣に倒れました。
  あなたは御怒りの日に虐殺し、
  彼らを容赦なくほふりました。(21節)
  あなたは、例祭の日のように、
  私の恐れる者たちを、四方から呼び集めました。
  主の御怒りの日に、
  のがれた者も生き残った者もいませんでした。
  私が養い育てた者を、
  私の敵は絶ち滅ぼしてしまいました。」(22節)








posted by さとうまさこ at 08:48| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする