2016年11月21日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌159  私が滅びうせなかったのは、主の恵みによる(哀歌3章1節〜33節)



  私は主の激しい怒りのむちを受けて
  悩みに会った者。(哀歌3章1節)

 哀歌3章「私」は、エルサレム住民の代弁者として一人称で語(新実用聖書注解・いのちのことば社)って
います。「私」はエレミヤ自身だと考えてもよいと思いますが、哀歌が、かならずしもエレミヤの作ではないとの見解もあるのです。
 いずれにしても、エルサレム崩壊の目撃者の悲惨な心には変わりありません。

  主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、(2節)
  御手をもって一日中、くり返して私を攻めた。(3節)
  主は私の肉と皮とをすり減らし、骨を砕き、(4節)
  苦味と苦難で私を取り囲んだ。(5節)
  ずっと前に死んだ者のように、
  私を暗い所に住まわせた。(6節)
  主は私を囲いに入れて、
  出られないようにし、
  私の青銅の足かせを重くした。(7節)
  私が助けを求めて叫んでも、
  主は私の祈りを聞き入れず、(8節)
  私の道を切り石で囲み、
  私の通り道をふさいだ。(9節)
  主は、私にとっては、待ち伏せしている熊、
  隠れている獅子 (10節)
  主は、私の道をかき乱し、
  私を耕さず、私を荒れすたれさせた。(11節)
  主は弓を張り、私を矢の的のようにし、(12節)
  矢筒の矢を、私の腎臓に射込んだ。(13節)
  私は、私の民全体の物笑いとなり、
  一日中、彼らのあざけりの歌となった。(14節)
  主は私を苦味で飽き足らせ、
  苦よもぎで私を酔わせ、(15節)
  私のたましいは平安から遠のき、
  私はしあわせを忘れてしまった。(17節)
  私は言った。
  「私の誉れと、
  主から受けた望みは消えうせた。」と。(18節)

 日本語でも、幸せを「甘い」味覚、不幸や哀しみを「苦々しい」と言います。平和で楽しい日には、晴れた空も雨の空も、寒さや雪でさえ、楽しむことができるでしょう。ところが、苦しみが襲うと、すべてが苦いものに感じられるのです。それが昂じると、深い穴に落ち込んだように鬱勃(うつぼつ)としてしまいます。うつがひどくなると、妄想に捕らわれたりするのも、「苦よもぎ」に酔うのと同じでしょう。

  私の悩みとさすらいの思い出は、
  苦よもぎと苦味だけ。(19節)
  私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。(20節)

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  私はこれを思い返す。
  それゆえ、私は待ち望む。(21節)

 沈みきった心境で、それでも、この作者は、大切なことを思い出すのです。それは、「主」です。主は、私たちに良いことをしてくださる方であることを思い出すのです。

  私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
  主のあわれみは尽きないからだ。(22節)

 この言葉は大きいですね。ほんとうに、生きている者は主のあわれみを思い出す必要があります。多くの悲惨の中で、多くの隣人が死んだ中で、自分はまだ生かされていることに気付く、それは何故だろうかと気づくことが大切です。
 神がこの世界に働いておられる方である。すべてを支配しておられる方である。あわれ見深い方である。必ず、救って下さる方であると、改めて心の深いところで、確信をもつのです。

  それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。(23節)
  主こそ、私の受ける分です。」と
  私のたましいは言う。
  それゆえ、私は主を待ち望む。(24節)

  主はいつくしみ深い。
  主を待ち望む者、主を求めるたましいに。(25節)
  主の救いを黙って待つのは良い。
  人が、若い時に、くびきを負うのは良い。(26節)
  それを負わされたなら、
  ひとり黙ってすわっているがよい。(27節)
  口をちりにつけよ。
  もしや希望があるかもしれない。(28節)
  自分を打つ者に頬を与え、
  十分そしりを受けよ。(30節)
  主は、いつまでも見放してはおられない。(31節)
  たとい悩みを受けても、
  主は、その豊かな恵みによって、
  あわれんでくださる。(32節)
  主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、
  思っておられない。(33節)

 主の愛に気づき、主が、意味なく試練や苦しみに人の子を突き落そうと思っておられないと気が付くのは、ほんとうに大きいですね。その時、すでに、私たちのたましいは絶望の深い井戸から外に出ているはずだからです。






posted by さとうまさこ at 10:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする