2016年11月24日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌162  底なしの悲しみ(哀歌4章9節〜4章22節)



  剣で殺される者は、
  餓え死にする者よりも、しあわせであった。
  彼らは、畑の実りがないので、
  やせ衰えて死んで行く。(哀歌4章9節)
  私の民の娘の破滅のとき、
  あわれみ深い女たちさえ、
  自分の手で自分の子どもを煮て、
  自分たちの食物とした。(10節)
  主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、
  シオンに火をつけられたので、
  火はその礎までも焼き尽くした。(11節)
  地の王たちも、世に住むすべての者も、
  仇や敵がエルサレムの門に、
  はいって来ようとは信じなかった。(12節)

 U列王記6章24節〜30節に、アラムの王ベン・ハタデに取り囲まれたサマリヤでひどい飢饉が起きたとき、二人の女が互いの子どもを煮て食べようと約束し、一人を食べた話が出ています。
 極度の飢餓は、ときに人の母性本能さえゆがめるのです。たしかにそんな地獄を見るなら、飢えて死ぬより、剣で殺される方がましかもしれません。
 ユダの崩壊は、なにより、指導者たちの罪です。エルサレムでは、預言者、祭司、貴族、王です。

  これはその預言者たちの罪、
  祭司たちの咎のためである。
  彼らがその町のただ中で、
  正しい人の血を流したからだ。(13節)

 聖書の語る指導者は、たんに政治的な行動や路線を問題にされているのではありません。彼等の罪は、この世的な政治よりむしろ、神に対する正しい姿勢を忘れたことです。自分に都合の悪い預言をするエレミヤを、穴に落としてゼデキヤもそのひとりです。

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  彼らは血に汚れ、
  盲人のようにちまたをさまよい、
  だれも彼らの着物に触れようとしなかった。(14節)
  「あっちへ行け。汚れた者。」と
  人々は彼らに叫ぶ。
  「あっちへ行け。あっちへ行け。さわるな。」
  彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。
  諸国の民の中で人々は言う。
  「彼らはもう立ち寄ってはならない。」(15節)
  主ご自身も彼らを散らし、
  もう彼らに目を留めなかった。
  祭司たちも尊ばれず、
  長老たちも敬われなかった。(16節)
  それに、私たちの目は、衰え果てた。
  助けを求めたが、むなしかった。
  私たちは見張り所で、見張った。
  救いをもたらさない国の来るのを。(17節)
  私たちの歩みはつけねらわれて、
  私たちは広場を歩くことができなかった。
  私たちの終わりは近づいた。
  私たちの日は満ちた。
  私たちの終わりが来たからだ。(18節)
  私たちを追う者は、大空の鷲よりも速く、
  山々の上まで追い迫り、
  荒野で私たちを待ち伏せた。(19節)
  私たちの鼻の息である者、

 なにが辛いと言って、自分が信じていた人や信念が虚像に過ぎなかったと失望することではないでしょうか。純真な子供が成長するにつれ、親や教師や友人に失望することがあります。ある種の理想化をしていたものが、幻滅に変わるときです。とはいえ、彼等もその「身内」を、自分たちと敵対する者たちから、蔑まれたたら「痛い」のではないでしょうか。
 敗戦を経験した日本でも、そのような複雑な葛藤を経験した人々が大ぜいいたようです。たしかに「愚かな戦争に」国民を導いた指導者たちを憎むのですが、それでも、彼等を弁護する者、心から同情する人が残されます。
 指導者と民はある意味、同じ命で結ばれているので、「戦犯になった者も悪いが、彼等を許していた国民も悪い」と言われると、落ち着かなくなるのです。
 
  主に油そそがれた者までも
  彼らの落とし穴で捕えられた。
  「この者のおかげで、諸国の民の中でも
  私たちは生きのびる。」と
  私たちが言った者なのに。(20節)

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 しかし、ユダの不幸に加担したエドムについても、主は見ておられるのです。
 いまは、隣国の不幸に手を打って喜んでいても、咎の杯は巡っているのです。涙の目をぬぐいながら、ユダの民が叫んでいる姿が見えるようです。

  ウツの地に住むエドムの娘よ。楽しみ喜べ。
  だが、あなたにも杯は巡って来る。
  あなたも酔って裸になる。(21節)
  シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。
  主はもう、あなたを捕え移さない。
  エドムの娘。主はあなたの咎を罰する。
  主はあなたの不義をあばく。(22節)









posted by さとうまさこ at 10:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする