2016年11月25日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌163  神を呼ぶ(哀歌5章1節〜10節)



 人の痛みの中でも、一番大きなものは「足もとがひっくり返る」ことではないでしょうか。物理的にも地震のようなもので足元が揺らぐのは恐怖です。飛行機になんとなく不安を覚えるのも、やはり「地に付いた物」ではないからでしょう。
 しかし、見えるもの以上に恐ろしいのは、「存在の基盤」を失うことではないでしょうか。生活の基盤です。テリトリーだったり、所属集団だったり、自分がそこからやって来た家族だったり故郷だったり、民族だったりしますが、そのようなアイデンティティの上に、人は生きています。

 平和な時には意識しませんが、ですから、第二次大戦を経験した人はみな、「戦争はコリゴリ」というのです。国が滅びそうになった恐怖は、個人の小さな努力も幸せもあっという間に押し流してしまいます。哀歌は、国を失った民の、根源的な恐怖が全篇をおおっています。
 どうにもならない時になって、初めて、だれでも「神様!」と叫ぶことでしょう。
 まして、ユダ王国はイスラエル王国とともに、神の選びの民の国です。神がお立てになった国で、特別だと彼らは思っていたに違いありません。

 いったい、自分たちの神はどうしてこんなことをなさるのかと、泣き叫ぶのです。

  主よ。私たちに起こったことを思い出してください。
  私たちのそしりに目を留めてください。
  顧みてください。(哀歌5章1節)
  私たちの相続地は他国人の手に渡り、
  私たちの家もよそ者の手に渡りました。(2節)
  私たちは父親のないみなしごとなり、
  私たちの母はやもめになりました。(3節)
  私たちは自分たちの水を、金を払って飲み、
  自分たちのたきぎも、代価を払って
  手に入れなければなりません。(4節)

 私たちは、このような境遇の人々を、現在でも見ます。難民問題は、まさに「住む場所を失った人々」の苦しみを私たちに付きつけて来ます。
 
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  私たちはくびきを負って、
  追い立てられ、
  疲れ果てても、休むことができません。(5節)
  私たちは足りるだけの食物を得ようと、
  エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。(6節)

 ふつうは、人々は父祖の地で父祖伝来の平和な生活を継続する時、「安心する」のです。開墾も冒険も、「父祖の地」という基地があって、はじめて挑戦し甲斐のある夢になりうるのです。
 追い立てられて旅する生活は、苦しいだけです。
 アブラハムは、ハランから見知らぬ地カナンへやってきました。しかし、彼は、戦争から逃げて来たのではありません。神さまのことばに従って行動したのです。未知の土地への不安はあったかもしれませんが、つねに神様が導いておられたのです。

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  私たちの先祖は罪を犯しました。
  彼らはもういません。
  彼らの咎を私たちが背負いました。(7節)
  奴隷たちが私たちを支配し、
  だれも彼らの手から
  私たちを救い出してくれません。(8節)
  私たちは、荒野に剣があるために、
  いのちがけで自分の食物を得なければなりません。(9節)
  私たちの皮膚は、飢えの苦痛のために、
  かまどのように熱くなりました。(10節)

 もちろん、アブラハムの子孫であるユダヤの民は、「主」を思い出すのです。やっぱり、主を呼び求めるしかないからです。けれども、これは、ある意味、光を見る行為です。
 神は、救って下さるのですから。







posted by さとうまさこ at 09:26| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする