2016年11月27日

Coffee Breakエレミヤ書・哀歌164  神の民として精錬されるために(哀歌5章11節〜22節)



  女たちはシオンで、
  おとめたちはユダの町々で、
  はずかしめられました。(哀歌5章11節)
  首長たちは彼らの手でつるされ、
  長老たちも尊ばれませんでした。(12節)
  若い男たちはひき臼をひかされ、
  幼い者たちはたきぎを背負ってよろめき、(13節)
  年寄りたちは、城門に集まるのをやめ、
  若い男たちは、楽器を鳴らすのをやめました。(14節)
  私たちの心から、喜びは消え、
  踊りは喪に変わり、(15節)
  私たちの頭から冠も落ちました。
  ああ、私たちにわざわいあれ。
  私たちが罪を犯したからです。(16節)
  私たちの心が病んでいるのはこのためです。
  私たちの目が暗くなったのもこのためです。(17節)
  シオンの山は荒れ果て、
  狐がそこを歩き回っているからです。(18節)

 戦争の悲惨は、時代を問わず、世界共通です。女たちが辱めを受けるのも、子供や老人が塵芥のように捨て去られ、殺される。敗残の兵は逃げまどい、惨殺される。王や将軍は戦死するか暗殺されるのです。
 戦争に「Win Win」の関係はありません。勝敗や上下をはっきりさせるのが戦争なのです。一度は勝った王も国も、やがて滅びます。うまく隠れおおせて戦禍を免れた人々も必ず死にます。
そこで、神を知らない民は嘆くしかありません。「盛者必衰」「諸行無常」だと。

 けれども、哀歌で歌われているのは、このような戦争の一般的な側面ではないように思います。
 ユダの人々も、自分たちの上に戦争の悲惨さのすべてがあることを驚き悲しんだのは事実です。けれども、すでに北王国イスラエルがアッシリヤによって攻め滅ぼされた現実があります。また、ユダ王国自身も、当時の世界で「専守防衛」ではあり得なかったのです。神の御命令は、そもそも、カナンを取るときから、「罪に満ちているカナンの7部族を滅ぼしては入れ」と言うものでした。罪に満ちた世界に神の御心を実現する国を立てるためには、「罪」と妥協してはならなかったのです。この限りにおいて、神は「異邦の民」の虐殺も許されているのです。そのために、ヨシュア率いるイスラエルの民のために、神がかり的な奇蹟を行なわれ(ヨルダン川渡河、エリコ攻略など)一方的に神の力を着せて下さったのです。
 その意味を、イスラエルの民は、知っていたはずでした。
 彼等は、自分たちと契約を結んでくださった神――アブラハム、イサク、ヤコブの神のご命令を厳格に行わなければならないと、思っていたはずです。

 ところが、彼等は、「神の選びの民」であり続けることはできませんでした。

★★★★★

 ユダ王国の徹底的な崩壊、神殿もエルサレムの城壁もすべて失い、王も祭司もバビロン捕囚に行くという現実の前で、初めて彼らは、神の御前に、たましいの底から悔い改めたのではないかとおもわれるほどです。

  しかし、主よ。
  あなたはとこしえに御座に着き、
  あなたの御座は代々に続きます。(19節)
  なぜ、いつまでも、
  私たちを忘れておられるのですか。
  私たちを長い間、捨てられるのですか。(20節)
  主よ。あなたのみもとに帰らせてください。
  私たちは帰りたいのです。
  私たちの日を昔のように新しくしてください。(21節)
  それとも、
  あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。
  きわみまで私たちを怒られるのですか。(22節)

 「一皮(ひとかわ)むける」ということばがあります。表現としては簡単ですが、じっさいには容易なことではありませんね。学校に行ったり、万巻の書を読んだり、良い師や友から学ぶことはできます。それでも「一皮むける」ものではありません。包丁で皮をそぎ落とすように傷をつけて体や心を剥かれて初めて、人は脱皮できるのです。
 信仰においては、そのような厳しい目に遭いたくないと思うのですが、「試練」によってしか、神に近づけないほど、私(たち)の罪は染みついているのかもしれないと、哀歌は改めて気づかせてくれるのです。


    






posted by さとうまさこ at 11:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする