2016年12月01日

エゼキエル書2、彼らは反逆の民だから(エゼキエル書2章1節〜10節)



 「神の栄光」は、エゼキエルにお語りになるのです。

 その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」(エゼキエル書2章1節)
 その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。(2節)
 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。(3節)
 彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる。』と言え。(4節)

 預言者たちの召命の場面は、どれも印象的です。私個人としては、やはりモーセのそれが、「絵になっている」と思うのですが、問題は、映像的な見栄えではないですね。
 召命を受けるというのは大変なことですね。その背後にある神の御計画、神の声は驚き怪しむ価値があります。
 人には理由はわからないけれども、ある人を神は召されるのです。たとえば、今日なら、献身や決心というのは、少なくとも本人の決意が最終的な一歩、最初の一歩となるのです。その前に、何年間か、何か月か、心の中で神のことばが蠢動(しゅんどう)する期間があるはずです。それでも、召しを最後まで遂行できないで、ドロップアウトする人もいます。
 ところが、預言者は、いきなり神が命じられ、神があらかじめ決めておられることを、人は、受け入れるのです。預言者が召されるのは神の御計画の重大な一歩、大きなテコ入れの時期ですから、これはもう「お断わりする」などという余地はないですね。

 驚き、たじろいで、しり込みしても、神は、それさえ、あらかじめご承知なので、モーセも結局エジプトに行くことになりました。エレミヤも、語り始めるのです。
 「自分は口下手だ」「まだ若すぎる」と言い訳をしても無駄です。

★★★★★

 彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。(5節)

 エゼキエルは、まず圧倒的な神の顕現のなかで、自分の意志を表わすような余地はありませんでした。その場にひれ伏して、神のことばを聞いたのです。その素直な態度に、神は「よしよし、良いしもべだ」と頭を撫でて下さるのではありません。
 召しのミッションがどれほど厳しいものになるか、厳粛な事実をお語りになるのです。

 人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。(6節)
 彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(7節)

 エゼキエルが遣わされる場所は「反逆の家」です。自分たちの反逆を指摘されると、逆切れしそうな民です。きっとものすごい反論が反撃のことばが返ってくるのでしょう。いやな恐ろしい顔を見せるのでしょう。絶対に聞いてやるまいというような態度を取るのでしょう。それでも、恐れたりひるんだりしてはならないのです。

 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」(8節)
 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。(9節)
それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。(10節)

 ミッションに先立って、神は巻物を食べよと差し出されるのです。巻き物は、トーラー(律法の書)のことです。神は、「反逆の民」の中に飛び込むエゼキエルに、みことばを食べさせられるのです。
 もちろん、エゼキエルは祭司ですから、トーラーをよく知っていたでしょうが、立って出かける前に、あらためて、みことばを食べるのです。





 

posted by さとうまさこ at 10:46| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月02日

エゼキエル書3、巻き物を食べよ(エゼキエル書3章1節〜11節)



 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」(エゼキエル書3章1節)

 「食べよ」は比喩的表現ですね。羊皮紙の巻き物を食べられるわけがありません。それを目で読むのではなく、頭で理解するのではなく、飲み込んで消化器官に送り、完全に消化吸収するまで「味わえ」と、神は仰せなのでしょう。一度血肉となった「教え」は、たんなる知識とは異なった迫力を発揮するはずです。
 私も「聖書を食べた」と言えるほどであったらと願いますが、とうてい届かない願望です。「時間がありません」「能力が足りません」「怠け者です」「年を取りすぎています」「語学は苦手なんです」と、言い訳はいくらでも並べることができます。
 エゼキエルの場合は祭司だったのですから、案外、「トーラーなら十分学びましたよ。もう暗記しています。人を教えることもできます」という気持があったかもしれません。
 主は、それでも、エゼキエルの前に、巻き物を差し出されるのです。
 
 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、(2節)
 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。(3節)

 神は、手ずから差し出された巻物で「腹ごしらえをせよ」と仰せなのです。そして、事実その時、巻き物は「口の中で蜜のように甘かった」のです。
 これは、みことばが「おいしい」ものになるためには、神の介在が必要だと示しているように思います。

★★★★★

 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。(4節)
 わたしはあなたを、むずかしい外国語を話す民に遣わすのではなく、イスラエルの家に遣わすのだ。(5節)
 あなたを、そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。(6節)
 しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らはわたしの言うことを聞こうとはしないからだ。イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ。(7節)

 このくだりは、「反逆の民イスラエル」に対する痛烈な皮肉ですね。
 ことばが通じない外国人が理解できることを、同じ言葉を話すイスラエルの民が理解できないというのです。その理由は、「聞こうとしない」からです。心をまるで鉄で覆っているかのように、頑なに閉ざしているからです。顔はもちろん鉄でできているのです。その顔で頭突きでもされたら、柔らかい肉で出来ている者はひとたまりもありません。
 だから、神は、エゼキエルの顔も同じように堅くして下さるのです。

 見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。(8節)
 わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」(9節)

 なんだかアニメの主人公たちの変貌を見るようですが、エゼキエルの顔が固くなるのは「空想」ではありません。たんなる「活劇」のためではないのです。神がエゼキエルを強められたのです。
 その上で、主は、エゼキエルに重ねて命じられます。
 「さあ、行って、告げよ」

 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。(10節)
 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」(11節)







posted by さとうまさこ at 09:28| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

エゼキエル書4、さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。(エゼキエル書3章10節〜17節)



 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに告げるすべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。(エゼキエル書3章10節)
 さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」(11節)

 旧約時代のイスラエルでは、預言者という神の人が存在することは、みんなわかっていたと思うのです。預言者のことばは神のことばですから、それを聞くべきだとも「知っていた」はずです。けれども、モーセのことばでさえ人々は、しばしば侮り疑いました。「葦の海が割れて、いのちを繋ぐ道――海の底を通って」命拾いしてさえ、すぐにその奇蹟を忘れてしまうのでした。
 カナンに入植できたのも神の奇蹟が実現したからです。神の御命令を聞いてそのとおり行わせたのは預言者ヨシュアでした。
 士師記の時代にも、イスラエルの危機的局面では、神は預言者を起こされました。サムエルは、「人がめいめい自分の目に正しいと思うことを行なっていた」(士師記21章21節)士師記時代の末期に起こされた偉大な預言者でした。

 神が主役の聖書で、神の国の歩みをリードしているのは、もとより神――主でした。
 それなのに、なぜ、預言者がないがしろにされる事態が起きて来たのでしょう。王制以降の預言者は、体制の中心で民をリードする人ではなく、体制に対抗する役割を与えられたらしいとわかります。預言者の学校の様な物ができて偽預言者が増えたこと、また、偶像が持ち込まれて彼らでさえ預言者と自称したことがあったからでしょうか。(T列王記18章13節、19節〜40節)

 エレミヤもエゼキエルも召命を受けることが、同時に民に憎まれる立場になることでした。
 神に叛いていた民は、「神である主はこう仰せられる」と言う者を、疎ましく思ったのです。彼らの気持ちのどこかで、「何故主は、ご自分の民にこのようなことをされるのか」といった、怨嗟(えんさ)の気持ちがあったに違いありません。厳しい捕囚の生活では、人を押しのけても自分だけが活路を開けることの方が大切だったからかもしれません。

★★★★★

 それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの主の栄光はほむべきかな。」という大きなとどろきの音を聞いた。(12節)
 それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。(13節)
 霊が私を持ち上げ、私を捕えたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた。(14節)
 そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた。(15節)

「霊が私を持ち上げ、わたしを捕えた」とき、どうしてエゼキエルは、苦々しい思いになったのでしょう。
 大きなミッションを与えられたことは、彼を「困惑」あるいは[混乱]に陥れていたようです。逃げたいという気持があって、彼は出て行ったのかもしれません。ヨナが、神の御命令に反して、タルシュシュ行の船に乗ったように、(ヨナ書1章3節)エゼキエルも逃げ場を求めたかもしれません。しかし、主の御手が彼をしっかりと捉えていました。
 彼の気持ちはとにかく、彼は命じられた場所に行くのです。でも、すぐに語り始めることなどできませんでした。

 七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。(16節)
「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。(17節)







posted by さとうまさこ at 10:34| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月04日

エゼキエル書5 もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、(エゼキエル書3章16節〜23節)



 七日目の終わりになって、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル3章16節)
 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。(17節)

 エゼキエルは、神から大きな任務を与えられてテル・アビブにいったものの、そこで茫然自失となってしまいました。その地の民の様子から、語るのがどれほどむずかしいかを感じたのかもしれません。到底聞き入れそうもない反逆の民の真ん中で語る不可能にひるんだのかもしれません。

 たとえば、渋谷や新宿の歩行者天国の真ん中で、いきなり「神に帰れ」と叫ぶ人がいたらどうでしょう。「自分たちの反逆を反省し、祈りなさい。そうでなければ滅びる」。
 クリスマスの時、教会以外の場所では、「救い主の誕生」は、すっかり取り去られました。十字架も聖書も絵にならず、クリスマスカードは、サンタとクリスマスツリーと抒情的な雪景色だけのものとなりました。実際の生活では、クリスマス休暇と家族や恋人たちが特別の食事を楽しむ特異日であり、その前のひと月は、ボーナスを当てにした買い物の期間です。デコレーションされた町や家並みは、楽しく豊かな生活を演出しているだけです。
 
 アンデルセンが「マッチ売りの少女」で描いた世界は、19世紀のものではなく、今日でも同じ世界があるのです。救い主が来られたことを記念する夜に「楽しく飲み食いし」、そのかたわらでマッチを擦って「心と体の飢えを満たす」貧しい人がいる。
それを、「滅びの入口だ」と警告するのは、勇気以上のものが必要です。

★★★★★

 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。(18節)

 主は仰せです。「もし、警告しないなら、悪者が死ぬだけではない。彼の地の責任はおまえにある。」
 そんなアホな…と言いたくなります。「手が当たった」くらいでも難癖をつけられかねないのが人間関係です。どうして「あなたは必ず死ぬ」なんて言えるでしょう。それが、神の判定だったとしても、です。
 
 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(19節)
もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。(20節)
 しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」(21節)

 こんこんと主は、エゼキエルに説いておられます。「イスラエルの見張り人」の役割り、その大切さを、見張り人に召された栄誉を語っています。
 それから、主は、またも促されます。

 その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」(22節)
 私はすぐ、谷間に出て行った。すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、現われた。それで私はひれ伏した。(23節)








posted by さとうまさこ at 08:17| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月05日

エゼキエル書6 わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。(エゼキエル書3章22節〜27節)



 その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこでわたしはあなたに語ろう。」(エゼキエル書3章22節)

 ゲバル川のほとりに来て、呆然としているエゼキエルに、神はまた、指令を出されます。
 「谷間に行け」と言われるのです。

 私はすぐ、谷間に出て行った。すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケバル川のほとりで見た栄光のように、現われた。それで私はひれ伏した。(23節)

 ゲバル川のほとりから、谷間に出て行くと、主が顕現されたのです。

 しかし、霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。主は私に語りかけて仰せられた。「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。(24節)

 霊が「うちに入り」というのですから、エゼキエルは神の霊に満たされたのですね。すると、また神は指令を出されます「家に閉じこもっていよ」というわけです。

 人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで縛られて、彼らのところに出て行けなくなる。(25節)

★★★★★

 主の「御命令」は、一見わかりにくいですね。預言者としてイスラエルの家に遣わすと仰せになり(エゼキエル書2章3節)、その意味は、「神のことばを取り次いで民に語れ」でした。(同3章4節) 行先は捕囚の民の居住地テル・アビブでした。そこからまた谷間に行くように指示され、再び、家に閉じこもるようにと命じられるのです。
 それから、さらに峻厳な預言があります。

 わたしがあなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。彼らが反逆の家だからだ。(26節)

 なんと、主は、エゼキエルが「話せなくなる」と仰せなのです。彼の舌が「上あごに着いたまま」になってしまうからです。そうされるのは神ご自身です。
 「語れ」と命じられる神ご自身が、預言者の舌を縛ってしまうのです。いったいどういうことでしょう。
主がエゼキエルと語られるときは、エゼキエルの口はきけるようです。
 エゼキエルは主のことばだけを復誦できるように変えられているのかもしれません。これはじつに神の深謀遠慮ですね。ほんとうに、主ご自身が語ることだけを語るようになる器として、エゼキエルを整えておられるのです。

 しかし、わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる。』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ。(27節)









posted by さとうまさこ at 09:49| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする