2017年01月01日

エゼキエル書31 残りの者とはだれか(エゼキエル書11章13節〜17節)



  あけましておめでとうございます。  
    いつも訪問して下さって、ありがとうございます。
    神様と皆様に導かれて、なんとか聖書通読も7年目に入ることができます。

    これからもよろしくお願い申し上げます。
                            2017年元旦 さとうまさこ





 こうして、私が預言しているとき、ベナヤの子ペラテヤが死んだ。そこで、私はひれ伏し、大声で叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはイスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」(エゼキエル書11章13節)

 ベレテヤは、エルサレムに残されていた指導者の一人です。ここでは彼の死因が問題なのではなく、「エルサレムは鍋で、民は肉だ」とうそぶいた人々に、主が宣告していたさばき(11章10節)が実現したと見るべきでしょう。
 しかし、エゼキエルにとっては、それは最悪の事態に見えました。彼にとっては、どんな形でもエルサレムとそこに残っている人々が、イスラエルの存在の証しだったからです。

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 そのとき、私に次のような主のことばがあった。(14節)
 「人の子よ。あなたの兄弟、あなたの同胞、あなたの身近な親類の者たち、またイスラエルの全家のすべての者に対して、エルサレムの住民は、『主から遠く離れよ。この地は私たちの所有として与えられているのだ。』と言った。(15節)

 主は、エルサレムの残っている人たちの実態を、エゼキエルに告げます。
 なんと、彼らは同胞の多くが捕囚に連れ去られたために所有者の無くなった土地を「自分たちの地として、自分たちの所有として与えられた」と、言っているのです。もちろん、物欲のためだけでなく、「残されたこと自体」主の祝福であるかのように、自分たちこそ主の「残された民」であるとうぬぼれていたのです。
 本当は、彼らは引き裂かれて異国に捕囚となっている同胞をあわれみ、気にかけなければいけないのです。
 あるいは、じつは、捕囚の地においても、そこにいる民にも主の目が注がれていることに気が付かなければいけないのです。

 それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』(16節)

 それを、主はご自身のことばと行為であかししてくださるのです。

 それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』(17節)

 捕囚からの帰還、それは、主が約束しておられることだと、わかるのです。








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2017年01月02日

エゼキエル書32 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(エゼキエル書11章17節〜20節)



 エゼキエルは幻を見ています。主がエゼキエルをエルサレムに運んで来られたのです。そこでエルサレムに残っている者の中の、有力な政治家であるベラテヤの死を見ます。エゼキエルは、これで、神はイスラエルをことごとく滅ぼされるつもりだと嘆きます。しかし、主は、すでに異邦の地に散らされた人々の中に「聖所がある」と仰せになります。神が捕囚の民の上におられるからこそ、エゼキエルも召されることになっているのです。

 そして、神は捕囚の民の帰還を約束して下さるのです。(エゼキエル書11章17節)

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 それは、すばらしい約束です。

 彼らがそこに来るとき、すべての忌むべきもの、すべての忌みきらうべきものをそこから取り除こう。(エゼキエル書11章18節)
 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。(19節)

 主ご自身が、戻ってくる民の心に「新しい霊を与えて」下さるのです。石のようなかたくなな心に代えて、温かい血が流れるやわらかい肉の心を与えて下さるのです。

 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(20節)

 出エジプト記6章6節7節で、神は、出エジプト記の真意がまだ理解できないモーセに仰せになっています。

 わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきにとによって、あなたがたを贖う。(出エジプト記6章6節)
 わたしは、あなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。(同7節a)

 これでわかることは、このことばは、神とイスラエルの民との関係の原点になることばです。
 捕囚のなかにあるエゼキエルは、神がこのように告げて下さるのを聞いて、どれほど希望の光を見たことでしょう。






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2017年01月03日

エゼキエル書33 主の栄光はその町の真中から上った。(エゼキエル書11章21節〜25節)



 しかし、彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう。――神である主の御告げ――」(エゼキエル書11章21節)
 ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。(22節)
 主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。(23節)

 主の栄光は、ケルビムといっしょに神殿の至聖所を離れて、とうとうエルサレムの東の山に移ってしまったのです。
 主が、「彼らの忌むべきものや、忌みきらうべきものの心を、自分の心として歩む者には、彼らの頭上に彼らの行ないを返そう」と言われるのは、じつにこのことでした。神の民は、神が共にいて下さってはじめて、恵みや祝福が伴うのです。

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 聖書を読んで、聖書の神と触れるとき、一番難しいのは、「神との関係が固定したものではない」ということではないでしょうか。まさに、「神は生きておられる」のです。
 天地創造の始めから、神は生きて語られ、万物を創造され、創造のみわざを喜んでおられます。息をし、その息を被造物である人の鼻から吹き込まれ、人が生き始めた時から、人の身を心配しておられます。アダムに 「助け手が必要だ」とエバをお与えになったのは、神が「一人でいる人(アダム)」を案じたからでしょう。
 彼らが、神の御命令に背いたときは、悲しみ怒っておられるのが、そのことばのすべてから読み取れます。
 楽園から追放するという厳しい「仕置き」は、神の怒りの炎、不義を憎む聖性が、彼らを焼き尽くさないためだと、説明されています。

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 霊である方が、このように感情をもっておられるというのは、信仰を偶像という形のある物に仮託しないではいられない人々には、なかなか理解が及ばないのです。
 これは、偶像を拝むことが、神信仰だと信じて疑わない日本の様な風土で、キリスト教の神髄が理解されない理由のような気がします。
 神は霊です。と言われて、そうだと思う場合でさえ、霊をなんとか箱に入れて包装紙をかけて、さらに麗々しく風呂敷で包んでいる時に、思わず、頭を低くするのが人間です。その方が安心なのです。りっぱな神殿で、破格の待遇でお取扱いするのだから、神がそこにいて下さるはずだと思えるからでしょう。

 結局のところ、人は、神様さえ、管理したいのだと思わざるを得ません。自分の手の内にあり、奉仕の対象としていつの間にか、自分が神を仕切ってしまう、そうなりがちな性質があるようです。それはもちろん、サタンがそうさせているのであっても、サタンに従いやすい性格を自覚しないと、いつ、私も神から離れてしまうかわからない・・・。

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 エゼキエルがエルサレムで見た幻は、ユダ王国断末魔の惨状でしたが、あらためて神とのお交わりを考えさせられます。それは、人となって世に来てくださった子なる神イエスを信じる信仰においても変わらないと思います。
 
 また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。(24節)
そこで私は、主が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた。(25節)








posted by さとうまさこ at 10:57| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

エゼキエル書34 ふたたび、実演による預言(エゼキエル書11章24節〜12章7節)



 また、霊が私を引き上げ、神の霊によって幻のうちに私をカルデヤの捕囚の民のところへ連れて行った。そして、私が見たその幻は、私から去って上って行った。(エゼキエル書11章24節)
そこで私は、主が私に示されたことをことごとく捕囚の民に告げた。(25節)

 エゼキエルは捕囚の民の間に戻って行きましたが、また新たな預言をするのです。

 ついで、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル書12章1節)
 「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。(2節)

 神が、エゼキエルの口に新たな預言を授けられたのは、エルサレムのまぼろしを語るエゼキエルのことばを、民が真剣に受け取らなかったからでしょう。

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 人の子よ。あなたは捕囚のための荷物を整え、彼らの見ている前で、昼のうちに移れ。彼らの見ている前で、今いる所から他の所へ移れ。もしかしたら、彼らに自分たちが反逆の家であることがわかるかもしれない。(3節)
 あなたは、自分の荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにし
て持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、出て行け。(4節)

 主は、エゼキエルに命じられるのです。捕囚の民のように荷物を整え、それを昼間に持ちだして、民に見せよ。そして夜になってから出て行くところを見せるのです。ふたたび、実演による預言です。
 「捕囚のための荷物」は、旅支度でしょう。しかし、楽しい旅に出るのではありません。捕虜として敵地に引かれていくのです。多くの家財道具を持って行くことはできなかったでしょう。貴重品や金品をもっていても取り上げられるかもしれません。まず、食糧、それからわずかばかりの着替え、女は女に見えないように顔を汚したり、髪を短くしたかもしれません。赤ん坊や老人を抱えた家の者は、それだけで大変な「荷物」です。
 それはただならぬ悲壮な旅支度ですから、民も心を揺さぶられるはずです。

 彼らの見ている前で、あなたは壁に穴をあけ、そこから出て行け。(5節)
 彼らの見ている前で、あなたは荷物を肩に負い、暗いうちに出て行き、顔をおおって地を見るな。わたしがあなたをイスラエルの家のためにしるしとしたからだ。」(6節)

 さらに、壁に穴をあけて、出て行くところを見せるのです。これは、すでに敵兵に酔って壁が破られていることを意味している(新実用聖書注解・いのちのことば社)のです。
 しかも、一連の、パフォーマンスに預言を夜(夜陰のうちに)に行うように命じられているのです。

 そこで、私は命じられたとおりに、私の荷物を捕囚のための荷物のようにして昼のうちに持ち出し、夕方、自分の手で壁に穴をあけ、彼らの見ている前で、暗いうちに荷物を背負って出て行った。(7節)






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2017年01月05日

エゼキエル書35 わたしが主であることを知ろう。(エゼキエル書12章8節〜23節)



 翌朝、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル書12章8節)
 「人の子よ。反逆の家、イスラエルの家は、あなたに、『何をしているのか。』と尋ねなかったか。(9節)
 彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。この宣告は、エルサレムの君主、およびそこにいるイスラエルの全家にかかわるものである。』(10節)

 実演による預言は、ちょっと想像しただけでも奇妙なものです。見た人たちは、エゼキエルが祭司であり、預言者であるだけに注目したことでしょう。主は、それをご存知の上でエゼキエルに、「イスラエルの家に語るべき言葉」を授けられるのです。

 また言え。『私はあなたがたへのしるしである。私がしたようなことが彼らにもなされる。彼らはとりことなって引いて行かれる。(11節)
 彼らのうちにいる君主は、暗いうちに荷物を背負って出て行く。出て行けるように壁に穴があけられる。彼は顔をおおうであろう。彼は自分の目でその地をもう見ないからである。』(12節)

 これは、ゼデキヤ王の身の上に、実際に実現したことです。エルサレムが崩壊したとき、ゼデキヤは戦士たちと夜陰に乗じて逃げ出しました。(U列王記25章1節〜5節) しかし、カルデヤ(バビロン)の軍勢が追いついたとき、王の親衛隊もみんな逃げ出してしまい、王は捕えられます。リブラにいたネブカデネザルのもとに連れて行かれるのです。
 そこで起こったことは、王の息子たちが目の前で虐殺され、そのあと、ゼデキヤは目をくりぬかれてバビロンに引かれていくのです。(同7節)

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 わたしはまた、彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をカルデヤ人の地のバビロンへ連れて行く。しかし、彼はその地を見ないで、そこで死のう。(13節)
 わたしはまた、彼の回りにいて彼を助ける者たちや、彼の軍隊をみな、四方に追い散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う。(14節)
 わたしが彼らを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。(15節)
 彼らが行く先の諸国の民の中で、自分たちの、忌みきらうべきわざをことごとく知らせるために、わたしが彼らのうちのわずかな者を、剣やききんや疫病から免れさせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(16節)

 ここでも、主のことばは、「わたしが主であることを知ろう」で締めくくられています。

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 ついで、私に次のような主のことばがあった。(17節)
 「人の子よ。震えながらあなたのパンを食べ、おののきながら、こわごわあなたの水を飲め。(18節)
 この地の人々に言え。『神である主は、イスラエルの地のエルサレムの住民について、こう仰せられる。彼らは自分たちのパンをこわごわ食べ、自分たちの水をおびえながら飲むようになる。その地が、そこに住むすべての者の暴虐のために、やせ衰えるからである。(19節)
 人の住んでいた町々が廃墟となり、その地が荒れ果てるそのとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』」(20節)

 とことん行き詰まって、悲惨が実現するまで、「主」を認めることができないのは、悲しいことですが、事実、そうだったのでしょう。
 それでも、それゆえ、そんな時には、希望的観測をする者がいたようです。

 さらに、私に次のような主のことばがあった。(21節)
 「人の子よ。あなたがたがイスラエルの地について、『日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。』と言っているあのことわざは、どういうことなのか。(22節)
 それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。(23節)

 厳しい預言は偽りである。主のさばきが来ることはない。このようなことを言う偽預言者は、エレミヤに対しても現れました。この現象について、もう少し考えてみたいと思います。








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