2017年01月06日

エゼキエル書36 わたしが言ったことはもう延びることはなく、必ず成就する。(エゼキエル書11章24節〜12章7節)



 もう、むなしい幻も、へつらいの占いもことごとく、イスラエルの家からなくなるからだ。(エゼキエル書12章24節)
 それは、主であるわたしが語り、わたしが語ったことを実現し、決して延ばさないからだ。反逆の家よ。あなたがたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。――神である主の御告げ。――」(25節)
 さらに、私に次のような主のことばがあった。(26節)
 「人の子よ。今、イスラエルの家は言っている。『彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。』(27節)

 イスラエルの家は、「神の選びの民」です。「神の救いのご計画に選ばれた民」です。選ばれただけではありません。神はイスラエル(の家)そのものをお立てになったのです。アブラハムという一介の遊牧民を召し出され、彼の孫ヤコブにイスラエルという名前をお与えになって息子をもうけさせ、イスラエル12部族の始祖とされたのです。
 いわば一粒の麦、コメなら一粒の米に過ぎなかったものに手を掛けて愛を注ぎ、数を増やし、純良な作物として育てられたのです。もちろん、聖書では、これは、麦ではなくぶどうとして譬えられています。

 わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。(エレミヤ書2章21節)

 このように神様によって育成された者には、当然、使命があるわけです。そのために、神はイスラエルをエジプトでの奴隷状態から救い出し、シナイで契約を結んでくださったのです。神の契約を生きる民に必要な十戒やおきても授けられました。
 無事にカナンに入るまで、まさに煙となり火となってイスラエルの民を守り、導いて下さったのです。

★★★★★

 カナンに入ったイスラエルは、しかしながら、ほどなく「ほかの神」に迷い始めています。周辺国から偶像が入ってきた士師記の時代、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」と、聖書の著者に記録されるありさまだったのです。(士師記21章25節)

 ここでの「王」は、イスラエルの神と人との関係を見れば、当然、「わたしのほかに神があってはならない」(出エジプト記20章1節〜5節)と仰せになった神のことでもあるでしょう。
 同時に、世俗的な力を振るう王のことです。イスラエルが周辺国に攻められ苦しめられる状況から、軍隊を指揮する王、王制が求められる時代がきていたのです。
 神はいわば「必要悪」として、王制をお認めになり、サウルやダビデを召されたのです。ですから、王は神を第一にする義務があります。ところが、その王自身が偶像を導入するようになり、イスラエル王国は、どんどん弱体化していったのです。王の堕落と連動して祭司や預言者、もとより長老や民も、つまり「イスラエルの家」は、堕落して行きました。

 神はこのような「イスラエルの家」に、さばきを行なうと宣告しておられるのです。しかし、誰ひとり、それを真剣に受け止めることができなかったようです。

 それゆえ、彼らに言え。『神である主はこう仰せられる。わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。』――神である主の御告げ――」(28節)

 これは、いわば、最後通牒ですね。じつに震え上がるような恐ろしい宣告です。






posted by さとうまさこ at 10:33| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

エゼキエル書37 偽預言者と偽預言者を求める者(エゼキエル書13章1節〜9節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書13章1節)
「人の子よ。預言をしているイスラエルの預言者どもに対して預言せよ。自分の心のままに預言する者どもに 向かって、主のことばを聞けと言え。(2節)
 神である主はこう仰せられる。自分で何も見ないのに、自分の霊に従う愚かな預言者どもにわざわいが来る。(3節)


 主の預言の矛先は「イスラエルの家」のメンバー全員から、イスラエルの預言者に向います。もちろん、ここで言われているのは「偽預言者」です。自分の霊に従っているだけで神のことばなど聞いていない者、「自称預言者」はもちろんのこと、それなりに名声があるような「偽預言者」が多くいたのでしょう。
 彼らは、神がもっとも厭われる人種でした。

 イスラエルよ。あなたの預言者どもは、廃墟にいる狐のようだ。(4節)
 あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった (5節)
 彼らはむなしい幻を見、まやかしの占いをして、『主の御告げ。』と言っている。主が彼らを遣わされないのに。しかも、彼らはそのことが成就するのを待ち望んでいる。(6節)
 あなたがたはむなしい幻を見、まやかしの占いをしていたではないか。わたしが語りもしないのに『主の御告げ。』と言っている。(7節)

 このようなみことばを聞いたとき、なんだかむずむず落ち着かない気分にさせられるのは私だけでしょうか。一介の信徒に過ぎない自分は、講壇の上から教会の群れにメッセ―ジをすることもないし、おおむね、偽預言については「罪がない」と思いたいのです。
 でも、毎朝聖書を読みながら、未来に対する神の託宣を導き出そうとするとき、そこの自分の考えを紛れ込ませないとは、言いきれないのです。

★★★★★

 私たちの世界は予言に満ちています。新聞記事もテレビの報道も、半分はすでに起こったこと、半分はこの先起きるであろう出来事です。私たちの会議や会話もいつも「これから起きるであろうこと」に言及します。卒業式で、学生の学びを褒めて祝福を与える校長先生のメッセージにも、かならず、彼らの未来への忠告やすてきな予言が含まれます。「これから。社会に出てそれぞれの道を進まれるみなさん!」というように語りかけるのです。そうでなければ、すでに習得した学びや取得した資格、すでに約束されている就職先が色あせてしまいます。

 未来について語る人がいるというのは、未来について心配している人がいることです。夜眠りにつくとき、だれが、明日の朝、大地震が来て自分は家の下敷きになるなんて、思うでしょう。明日は、「いってらっしゃい」と、送り出した夫や子供が、町の交差点で交通事故で死ぬなんて思うでしょう。もし、そんな心配を本気でするようになったら、とても平穏な日常生活は営めません。ほんとうは、それは「適切な感性」の結果かもしれないのですが、それでは「やってはいけない」ので、お医者様で、何か薬をいただくことになります。占いやお祓いをしてもらうか、ドラッグや酒に手を出すかもしれません。買い物中毒やおしゃれ中毒、ダイエットや健康情報ばかり気にする「からだ心配性」になることでしょう。

 だから、聖書のことばを読みながら、神のことばに耳を傾けている最中にでも、未来に対するひとりよがりな「予言」を形成していないとは言えません。それを思うと、少々気が重くなるのですが・・・。

★★★★★

 偽預言者は、エゼキエルの時代に始まったことではありません。モーセが神と「顔と顔を合わせて」神のことばを受けている時でも、モーセの姉ミリヤムや兄アロンが、「神が言葉を授けられるのはモーセだけだろうか」などと、言い出しました。
 これは、もちろん、彼ら二人の思いつきであるだけではないでしょう。アロンやミリヤムを支持する大勢の民がいて、じっさいにそのような考え方を吹き込んだかもしれないのです。なぜなら、未来への 不安は、長老であっても祭司であっても、民であっても奴隷であっても、変わらずもっているからです。
 でも、そのような言い訳を、「主は」、許して下さるでしょうか。次のように仰せです。

 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたは、むなしいことを語り、まやかしの幻を見ている。それゆえ今、わたしはあなたがたに立ち向かう。――神である主の御告げ。――(8節)
 わたしは、むなしい幻を見、まやかしの占いをしている預言者どもに手を下す。彼らはわたしの民の交わりに加えられず、イスラエルの家の籍にも入れられない。イスラエルの地にもはいることができない。このとき、あなたがたは、わたしが神、主であることを知ろう。(9節)









posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

エゼキエル書38 偽預言をあばく方――わたしが主である(エゼキエル書13章10節〜14節)



 実に、彼らは、平安がないのに『平安。』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。(エゼキエル書13章10節)
 しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。(11節)
 すると、壁が倒れ落ちる。人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか。』と言わないだろうか。(12節)


 私個人も、物事をあまーく楽観的に見たいのです。ニュースでテロ事件を見ても、「日本には来ないだろう」と思いたいのです。多くの人が高齢になると癌や心臓病や卒中になる、認知症になると言われても、気分としては自分だけは例外だと思いたいのです。近くの国が核攻撃をしてくるかもしれないとの危機感も、「これまで戦後70年も平和だったのだから」と、最大限「あまーい」観測を歓迎しているのです。でも、これは人間の中にある、ある防衛本能かもしれません。そこをサタンはついてくるのでしょう。

 王国末期のユダ王国の時代は、今より情報が少なかったでしょう。現実にエルサレムがバビロニア軍に囲まれていても、「エジプトから援軍が来る」と言われば。それを信じる民は大勢いたに違いありません。ヒゼキヤ王の時代に、エルサレムを攻めていた18万5千人が一晩で死ぬ事件があり、アッシリア軍は引き揚げたのです。(U列王記19章35節)さらに、神が敵の侵略を許しておられる理由がイスラエルの家の偶像礼拝であったとしても、それはみんな認めたくなかったのです。多くの民が偶像も拝んでいたからです。
偽預言者は、このような所に付けこんでいたのです。

 ただし、間違った預言はやがて破綻します。時間が経てば、「剥げ落ちるのです」。源氏との大雨の中では「剥げ落ちる」のです。
 預言者を自認して偽りの預言を言う者たちは、人々から「予言と違う」と責められることになる。そのとき、あなたがたはどうするのかと、主は仰せなのです。

★★★★★

 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは、憤って激しい風を吹きつけ、怒って大雨を降り注がせ、憤って雹を降らせて、こわしてしまう。(13節)
 あなたがたがしっくいで上塗りした壁を、わたしが打ちこわし、地に倒してしまうので、その土台までもあばかれてしまう。それが倒れ落ちて、あなたがたがその中で滅びるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(14節)

 偽預言に対しては、神ご自身が雨を降りそそがせ、雹で壁を叩きつけて、漆喰をはがしてしまうと仰せなのです。
 神の前に、隠れ続けることができる者などありませんから、偽預言者は、けっきょく馬脚を現すのです。
いえ、神様のそのような御業が現れるのです。そのような御業を見て、初めて、神を神。つまり、「わたしが主であることを知ろう」と、思い知らされるのが人間のようです。





posted by さとうまさこ at 08:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月09日

エゼキエル書39 「わたしが主であることを知ろう」の試練(エゼキエル書13章15節〜23節)



 わたしは、その壁と、それをしっくいで上塗りした者どもへのわたしの憤りを全うして、あなたがたに言う。壁もなくなり、それにしっくいを塗った者どもも、いなくなった。(エゼキエル書13章15節)
 エルサレムについて預言し、平安がないのに平安の幻を見ていたイスラエルの預言者どもよ。――神である主の御告げ――(16節)


 滅亡寸前であっても、エルサレムで盛んに預言活動が行なわれていました。滅亡寸前である危機の時代だから、なお予言の需要があったのでしょう。彼ら偽預言者を断罪され神は、次は、その中の女預言者について語ります。

 人の子よ。自分の心のままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔を向け、彼らに預言して、(17節)


★★★★★

 言え。神である主はこう仰せられる。みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ、あらゆる高さの頭に合うようにベールを作って、人々をわなにかける女たちにわざわいが来る。あなたがたは、わたしの民である人々をわなにかけて、自分たちのために人々を生かしているのだ。(18節)

 この箇所の具体的な様子や意味はよくわかりません。註解書にもよくわからないと書いてありますので、さとうは、ほっとしています。
 部屋の作りを神秘的にしたり、異形の服装をしたり、意味不明の儀式が返って意味深に見えたりする、そういう人間の錯覚を利用するのは、昔も今も「占い師」のやり方だったのですね。

 あなたがたは、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、まやかしに聞き従うわたしの民にまやかしを行ない、死んではならない者たちを死なせ、生きてはならない者たちを生かして、わたしの民のうちでわたしを汚した。 (19節)

 ワラにもすがりたい人々に偽予言を行なう者のほとんどは、生計のためです。お金を取らない占い師などいません。今日では、ネットやマスコミを通じて、名声を自分で作り上げて、ギャラを吊り上げるという自作自演の占い師がほとんでです。しかし、占いや口寄せは、神が禁じておられることなのです。本来、預言は神が語られることだけを語るものです。神が語っておられないことはどれほど真実に見えてもいつわりです。そして、そこに必ず悪魔が介入してくるのです。

 それゆえ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたがたが、人々を鳥を取るようにわなをかけたのろいのひもに立ち向かう。それらをあなたがたの腕からもぎ取り、あなたがたが鳥を取るようにわなにかけた人々を、わたしが放す。(20節)

★★★★★

 わたしは、あなたがたのベールをはがし、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。わなにかかった者たちは、もうあなたがたの手のうちにいなくなる。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(21節)

これは、偽預言者たちの預言がことごとく外れて、彼らの「化けの皮」がはがれるときのことです。偽預言者たちは恥を見、人々は、「わたしが主であることを知ろう」と預言したエゼキエルの正しさに気が付くのです。

 あなたがたは、わたしが悲しませなかったのに、正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づけ、彼が悪の道から立ち返って生きるようにしなかった。(22節)

 この言葉は、偽預言や占いをする女たちも一応「主」を恐れていたことを証ししています。主を信じていながら、人を欺いていたのです。
これはある意味、異教徒が人びとを欺くより深刻です。
こんなことを、現代の教会にあてはめたくはないですが、気をつけないと今日にも適用できるような気がします。牧師や伝道者やりっぱな信徒が、すばらしい祈りをするような「高い」信仰者が、人々を偽りで悲しませ、悪者を力づけるようなことがあり得るかもしれないのです。

それゆえ、あなたがたは、もう、むなしい幻も見ることができず、占いもできなくなる。わたしは、わたしの民をあなたがたの手から救い出す。このとき、あなたがたは、わた
しが主であることを知ろう。」(23節)

 結果的に、正しい預言者を選ばれている「主」を知ることになるとしても、それは大変な試練の回り道ではないでしょうか。





posted by さとうまさこ at 10:56| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月10日

エゼキエル書40 心の中に偶像を秘める罪(エゼキエル書14章1節〜6節)



 イスラエルの長老たちの幾人かが来て、私の前にすわった。(エゼキエル書14章1節)
 そのとき、私に次のような主のことばがあった。(2節)

 この場面は、預言者エゼキエルにイスラエルの長老たちが会いに来て、相対している(向かい合っている)と想像してよいのではないでしょうか。彼らはエゼキエルとともに、捕囚の居住地ケバル川のほとりに暮している人たちです。この時代の捕囚は、私たちがいま考える捕虜とは少し違います。近代戦の中では、捕虜は勝者の定めた「宿舎」に閉じ込められ、労働を強いられ、監視されます。代わりに最低限粗末な衣食は保障されているのです。ふつうは兵士ですから男ばかりのキャンプでしょう。

 しかし、バビロン捕囚の時代は、敗戦国の民を政治的にどう活用するかが問題でした。アッシリヤは、制圧した国の民を大々的に移動させたのです。バビロンも同じようにしたのでしょう。元の居住先から家族もろとも引き抜き、まったく新しい場所に移すのです。そのように一つの国の国民をばらばらにしてしまうとどのような政治体でもどんな国でも機能しなくなって滅びてしまいます。
 バビロン捕囚に連れ去られた人たちは、だからある程度の自由があったと考えられています。その意味では、自分たちで生活をたてていかなければならなかったわけです。ケバル川のほとりで、彼らは何をしていたのでしょう。開墾したり、少しの牧畜をしたり、小さな商売を始める者もいたことでしょう。しかし、先行きの不安がいつも彼らに付きまとっていて、とうぜん神の御心を預言者に求めに来るのでしょう。

★★★★★

 ところが、この時、主は、次のような預言をエゼキエルの口にお授けになります。

 「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。(3節)

 神の前に来て、その御心を求める者がじつは心の中では、神をないがしろにする偶像を抱いていると、主は仰せです。

 人間は、態度や物腰や言葉で自分を偽ります。いえ、ときには、自分で自分の偽りに気付かないほど巧みに、偽るのです。
 ただし、神の前では何一つ、ごまかすことはできません。これは、聖書の神の全能性によるものですから、どんなに繕っても隠すことができないのです。(へブル人への手紙4章3節、伝道者の書12章14節)

 それゆえ、彼らに告げよ。神である主はこう仰せられると言え。心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう。(4節)

 偶像は、一般に「形のあるもの」ですから、それを廃棄するときも「見せる」ことができます。偶像を祀らなければよいと思い、そのようにするのですが、しかもなお、偶像を「顔の前においている者」がいると、神は仰せです。
 これは、すごいことばですね。偶像は「手で鋳たもの」以上のものだと気づかされるのです。神社仏閣に行かず、仏壇を廃棄するように命じ、家からあらゆるアイドルを追放した人であっても、まだ、なお捨てきれない偶像はたくさんあります。お金、地位、名誉、役職、メダル、家族でさえも、神の上に置くとそれは偶像になります。

★★★★★

 神の警告は、峻嶮(しゅんけん)です。

 偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである。(5節)
 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。(6節)

 まず、改めて、悔い改めをせよ。捕囚になった原因に思いを馳せ、自分たちの犯した罪を見つめ、神に謝罪せよと要求しておられるのです。








posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする