2017年01月11日

エゼキエル書41 本気の悔い改め――心に秘めた偶像を取り去る(エゼキエル書14章7節8節)



 神は、神のもとに来る前に悔い改めが必要だと仰せになっています。この場合、エゼキエルの所に預言をもとめてやってきたイスラエルの長老たちに対して言われているのです。
 イスラエルが滅びた原因は、王から民に至るまで、人々の間にはびこった「偶像礼拝」のために、「主なる神」をないがしろにしたからです。ですから、神のことばを求めるのであれば、まず、徹底的に悔改めて、外面だけでなく、心の奥底まで偶像を取り払っていなければならなかったのです。捕囚の民となっていた者の中に、神の目からご覧になったら、偶像を抱いている者がいたのでしょう。
 
 イスラエルの家の者でも、イスラエルにいる在留異国人でも、だれでもわたしから離れ、心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを顔の前に置きながら、わたしに尋ね求めようと、預言者のところに来る者には、主であるわたしが答えよう。(エゼキエル書14章7節)

 ここで問題になっているのは、異教の神の祭壇や彫像ではなさそうです。「心の中に秘められた偶像」だというのです。それは、どのような物かと言えば、人を「不義の引き込むもの」なのです。

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 たしかに、一見正しく見える行為、考え方、物などが、神の前に不義であることはたくさんあるのです。
たとえば、お金はとても便利なものですから、人はお金のために懸命に働きます。勤勉そのものは神の前にも正しいことでしょう。
 同時に、お金は偶像になります。サマセット・モームは「カネは第六勘のようなもので、これがないと他の五感も上手く働かない」と言いました。お金がない状態を「首が回らない」とも言います。
 では、金があれば五感が全開するかと言えばそうとばかり言えません。お金があっても「首が回らなくなる人」もいます。神に喜んでいただくこと、神が味方をして下さることを求めるのが先なのです。
 神がそのおつもりになれば、たとえ、倉を建てても城を建てても、首はおろか、いのちさえ取ることができるのです。

 捕囚の民の間では、先行きが不安なだけに、「金」「富」への執着は強かったでしょう。現生利得を思い、神にご利益(ごりやく)を願う気持が切実だったと推測できます。
 そのような「ご利益」を心に思い描いて、預言者のところへ来るとき、神は次のような反応をされたのではないでしょうか。

 わたしがそのような者から顔をそむけ、彼をしるしとし、語りぐさとして、わたしの民のうちから彼を断ち滅ぼすとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(8節)

 心からの悔い改めもせず、偶像を潜ませて預言者に神のことばを求める行為は、素朴な偶像崇拝者より悪いと神は示しておられるのです。
 そのような者は、「立ち滅ぼす」という事実で、人々は「わたしが主であることを知ろう」と、仰せなのです。何とも厳粛な気持ちにさせられます。








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2017年01月12日

エゼキエル書42 全能の神の奥行きを知る(エゼキエル書14章9節〜11節)



 エゼキエル書は、まるで自分に、自分が生きているこの時代に語りかけているようだと、さとうは驚いています。心の中の偶像については、今日の、キリスト者こそ真摯に受け止めなければならない神からのことばだと思います。
 たしかに、クリスチャンは、偶像をばかげたものだと「知って」います。手で刻んだ木彫や石像や金属の像を拝む事を聖書が禁じているのを「知って」います。天地を創造された大きな神が、そのような「物質」の中に閉じ込められるなんてあり得ないのを「知って」います。神社仏閣などの歴史的建造物や多くの仏像を見たとき、それらを、丹精込められた「工芸品」「芸術品」であるかも知れないとは思います。けれど、もとより礼拝の対象――神を意味する物だとは思いません。

 現代のクリスチャンにとって、その意味で、「見える偶像」は信仰を惑わされる対象ではないでしょう。むしろ、心の奥に隠れた偶像こそ見なければならないと、エゼキエル書から、指摘されているようです。

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 神は全能のお方ですから、「隠れた偶像」を見ぬくことがおできになります。場合によっては、それを取り去ることも、さらに加えることもなさるのです。また、あわれみをもって人を造り変え、どうにもならない悪人でも、主の御用をするようにして下さるのです。(例、ザアカイ・ルカの福音書19章1節〜9節
 しかし、私たちは、どんなに知識が豊かで、人柄のよい人間でも、クリスチャンでも、牧師でも、人の心の奥がすべてわかるわけではありません。

 難しいのは、私たち人間は、例えば、神から召されたエゼキエルでさえ、「惑わされる」かもしれないことです。りっぱな言動をする長老たちに、惑わされる可能性があるのです。それは、しかも、神ご自身から来ているわけです。

 もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、――主であるわたしがその預言者を惑わしたのである――わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。(エゼキエル書14章9節)
 こういう者たちは、自分たちの咎を負う。この預言者の咎は、尋ね求めた者の咎と同じである。(10節)

 そのような過ちを、預言者(神に召された者)が犯すとき、神は、この預言者に、「尋ね求めた者」と同じ咎を下されるのです。

 それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。――神である主の御告げ。――」(11節)

 このような神の全能性――奥深さ――を知って行うとき、たしかに、信仰がより深まるのかもしれないと、厳粛な気持ちにさせられます。







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2017年01月13日

エゼキエル書43 たとえ、ノアとダニエルとヨブがいっしょになってとりなしても、免れないさばき(エゼキエル書14章12節〜20節)



 「悔い改めよ」「偶像を捨てよ」との神の命令は、とても厳しいものでした。これまでのように、神殿の中や家の中から、異教の偶像を取り除くだけではなく、「心の中の見えない偶像までも問題にされているからです。この箇所は、今日(こんにち)のキリスト者に付きつけられる課題だと思うのです。

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 ところが、つぎに、これにも増して、厳しい御告げがあります。

 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書14章12節)
 「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、(13節)
 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ――(14節)

 ここで、「国」と名指しされているのは、イスラエルのことです。一般名詞ではなく固有名詞として読むべきでしょう。神の選びの民に、神が造らせて下さったイスラエルは、当然神に誠実でなければなりません。偶像礼拝で、「パンの蓄えが亡くなったり」「飢饉や害獣の被害で国が滅びる」のは、神のさばきなのです。
 問題は、この厳しいさばきが下るときには、たとえ、ノアやダニエルやヨブがいっしょになってとりなしても、無駄であることです。彼ら、神の目にもっともかなった義人たちでさえ、彼らの命を救い出すことはできるけれど、イスラエルの他の民のためになにもできないのです。この時、イスラエルはそれほどひどい罪をおかしているのです。

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 この聖書箇所は、読み進むにつれ神のさばきの厳しさを、繰り返します。

 もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし、荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、(15節)
 たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる。(16節)
 あるいは、わたしがその地に剣を送り、『剣よ。この地を行き巡れ。』と言って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすとき、(17節)
 たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出される。(18節)
 あるいは、わたしがその地に疫病を送って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすために、血を流し、わたしの憤りをその地に注ぐとき、(19節
 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。(20節)

 ノアとダニエルとヨブのとりなしは、彼らの隣人――イスラエルの民に付いて無効なだけではありません。彼らにとってもっとも親しい家族、彼らの息子や娘たちをも救い出すことはできない、彼らの義は、彼らだけに及ぶと神は仰せです。
 そうして、ユダ王国は崩壊し、イスラエルはいったん消滅します。

 ノアの洪水のときのように、神は、ご自分の民の国を滅ぼされました。いったん、滅ぼして、リセットされようとしたのでしょうか。








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2017年01月14日

エゼキエル書44 神の深遠な愛――すべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。(エゼキエル書14章21節〜23節)



 まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、(エゼキエル書14章21節)
 見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。(22節a)

 
 それにしても、捕囚の地にいる民に、どのような義人のとりなしも「聞かない(効かない)」と神は宣告しています。なんと厳しいのだろうと思うのです。痛い思いの中にいる民に、慰めになるような言葉を掛けて下さってもよいではないですか、と、すぐに甘いほうに傾くさとうなど思ってしまうのです。

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 神の国の歴史を見たとき、たしかに、神が奇蹟的な救いから、容赦のない刑罰の宣告まで、その導きの中で、相当の幅のある対応をなさることは認めざるを得ません。
 ノアの時代には、たしかに大洪水でいったん地上をリセットしようとされたのです。ノアとその一家以外は、滅ぼされたのです。ゴモラとソドムに対するさばきも容赦のないものでした。

 人ひとりひとりに対しても、例えば、ヨブは徹底的に「痛めつけられている」のです。しかも、彼は「神の前に正しい人」でした。それだけに、その理由がわからないような「苦しみ」でした。神は、ヨブを陥れようとするサタンの魂胆をお見通しの上で、サタンに、ヨブに「触れる(苦しめる)」ことをお許しになるのです。「いのちにだけは触れるな」という御命令だったので、サタンもヨブを殺すことはできませんでしたが、それはそれでヨブを苦しめたのです。

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 エゼキエルが預言を語っているのは、神殿が破壊され、国が崩壊し、神の都エルサレムから引き抜かれて、異教の地で明日の見通しもない暮らしに、悶々としているイスラエルの民(ユダヤ人)です。心の奥底に偶像を抱いていても、まして、ノアやダニエルやヨブに執り成しを願う気持ちがあったとして、神様のお答えは厳しすぎるのではないでしょうか。

 ただ、もう一歩突っ込んで、神の御思いを見なければいけないのかなとも思います。
 捕囚は、神がイスラエル民族に、「意図して」お与えになった試練です。王国時代に、主はあらゆる方法で、南北両王朝に「神に立ち返る」よう警告しています。

 実際に、彼らが国をもち、見える組織や地位や富の中にいるとき、彼らはどんな試練を受けても、信仰を堅く保つことはできなかったのです。
 神殿を失い、国を失い、王を失い、アブラハムの子孫、シナイ契約とモーセの律法をいただいた民としてのアイデンティティを徹底的に失いわせるのは、神の意図されたことでもあったとも言えます。まさにゼロに見える地で、ゼロになって神に立ち返る――そのように信仰が精錬されることを、神は願っておられる。

 この章は、そのような深遠な神の愛のことばで閉じられています。

 あなたがたは彼らの行ないとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。(22節b)
 あなたがたは、彼らの行ないとわざとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。――神である主の御告げ。――」(23節)









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2017年01月15日

エゼキエル書45 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。(エゼキエル書15章1〜8節)



  次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書15章1節)
  人の子よ。ぶどうの木は、
  森の木立ちの間にあって、
  その枝が、
  ほかの木よりどれだけすぐれているのか。(2節)
  その木を使って何かを作るために
  その木は切り出されるだろうか。
  それとも、あらゆる器具を掛けるために
  これを使って木かぎを作るだろうか。(3節)
  見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、
  火がその両端を焼き尽くす。
  その中ほども焦げてしまえば、
  それは何の役に立つだろうか。(4節)
  見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、
  まして、火がそれを燃やして、焦がせば、
  もう、それで何が作れよう。(5節)
  それゆえ、神である主はこう仰せられる。
  わたしはエルサレムの住民を、
  わたしがたきぎとして火に投げ入れた、
  森の木立の間のぶどうの木のように、
  火に投げ入れてしまう。(6節)

 つる性植物であるぶどうは、地面を這うように成長し、みずからは大木にはなりません。自分でがんばって天に届くまで生育して森を形成しようと思っても、できないのです。
 聖書では、人は、しばしばこのぶどうにたとえられています。これは、たまたまカナンの地にぶどうが生育していたからなのか、神様が神のためにぶどうを備えておられた方が先なのかはわかりませんが、じつに適切なたとえです。
 ぶどうは木材としても弱いようです。何かを掛けるための木カギを作ることさえできません。そこで、実を結ばないならたきぎとして、火にくべられるだけです。木材にもならなかったぶどうの木がたきぎとして燃えた後はなお、何の役に立とうかと問われています。

 ここで火と言われているものは、イスラエルに迫っている異邦人の武力です。アッシリヤやバビロニヤのことです。これら大国を、森の木立だとしたら、イスラエルはぶどうの木なのです。

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  わたしは彼らから顔をそむける。
  彼らが火からのがれても、
  火は彼らを焼き尽くしてしまう。
  わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、
  あなたがたは、
  わたしが主であることを知ろう。(7節)

 主は、「彼ら(イスラエル)から顔をそむける」と仰せなのです。もともと、イスラエルが大きくなり、エジプトを出てカナンにたどり着くことができたのは、まさに神の後押しがあったからです。神がつねにイスラエルと共にいて下さって、イスラエルは生きのびて来ました。その神に見放されたら、もうおしまいです。

  彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、
  わたしはこの地を荒れ果てさせる。
  ――神である主の御告げ――(8節)










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