2017年01月21日

エゼキエル書51 霊的結婚の意味するもの(エゼキエル書16章41節〜47節)



 聖書の神が人間の夫婦関係、その夫に譬えられていることに驚く方がいるかもしれません。じつはさとうも始め、その図式に抵抗がありました。「創造主」「被造物」のけじめがあいまいになるように思えたのです。
 とりわけ、現在の夫像は「神」の位置に置くのは無理がありそうです。

 聖書では、私たちと神さまとは絶対に対等ではあり得ないのですが、今日では、夫婦はもちろん対等なものです。聖書の神様は、「すべてを下さる」方ですが、人間の夫は、妻にすべてを与えることなどできません。聖書の神様は全能の方、永遠から永遠を存在しておられる方、宇宙の端から端までを統べておられる方、隠れたことすべてを見通される方、とその偉大さをどのように言い表しても、言葉がないほどです。人間の夫が、そのような神様に事寄せられるなんて、弱い人間に対して大きすぎる役割りかと思います。

 それでも、夫婦になぞらえてくださるのは、最も深いところを許しあう夫婦関係――のように、私たち人間が、神様に自分のもっとも深いところで結び合わされることを求められているからではないでしょうか。
私たちのもっとも深いところ、それは、肉体を越えた「こころ」「たましい」ともいうべき霊的な領域でしょう。
 だからこそ、神は、契約の始めに、「ほかの神々」を拝むことを戒められ、厭われているのでしょう。なぜなら、「この方」が私たちを「いのちの息を吹き込んで、生きる者として下さった」のです。その同じ「霊の息」で結び合わされることが、神との奥深いつながりなのです。

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 そのうえ、あなたの家々を火で焼き、多くの女たちの見ている前であなたにさばきを下そう。わたしはあなたの淫行をやめさせる。あなたはもう、報酬を支払わなくなろう。(エゼキエル書16章41節)
 わたしは、あなたに対するわたしの憤りを静め、わたしのねたみをあなたから遠のける。わたしは心を休め、二度と怒るまい。(42節)
 あなたが、自分の若かった時のことを思い出さず、かえって、これらすべてのことでわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行ないを返す。―― 神である主の御告げ――あなたはすべての忌みきらうべきわざに、みだらな行ないを加えることは、もうすまい。(43節)
 見よ。ことわざを用いる者は、あなたについてこういうことわざを用いよう。『あの母だから、この娘。』と。(44節)
 あなたは、自分の夫と子どもをきらった母の娘。自分たちの夫や子どもをきらった姉妹があなたの姉妹。あなたがたの母はヘテ人、あなたがたの父はエモリ人であった。(45節)
 あなたの姉は、その娘たちといっしょに、あなたの左に住んでいるサマリヤであり、あなたの妹は、その娘たちといっしょにあなたの右に住んでいるソドムである。(46節)

 これは、イスラエルが置かれたカナンの環境を言われています。以前にも書きましたが、イスラエルは、更地に入ったのではありません。最初から、多くの異教の民がいて、彼らを滅ぼして入るようにとの御命令でした。
 これもある意味異教徒が象徴的に使われていますが、「偶像の神に決然と戦いを挑んで、彼らを滅ぼして」、そのあと地に、「神の国」を築くことが神のみむねだったにちがいありません。
 しかし、現実は違いました。

 あなたは、ほんのしばらくの間だけ、彼らの道に歩まず、彼らの、忌みきらうべきわざをまねなかったが、ついにあなたのすべての道において、彼らよりも堕落してしまった。(47節)







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2017年01月22日

エゼキエル書52  若い時の契約に代えて、新しい契約を与えてくださる約束(エゼキエル書16章48節〜63節)



 わたしは誓って言うが、――神である主の御告げ――あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった。(エゼキエル書16章48節)
 だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。(49節)
 彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。(50節
 サマリヤもまた、あなたの罪の半分ほども罪を犯さなかった。あなたが彼女たち以上に多くの忌みきらうべきことをしたので、あなたのしたすべての忌みきらうべきことが、あなたの姉妹たちを正しいとした。(51節)
 あなたも、あなたの姉妹たちをかばった恥を負え。あなたが彼女たちよりももっと忌みきらうべきことをして罪を犯したため、彼女たちがあなたよりも正しいとされたからだ。あなたもはずかしめを受けよ。あなたの姉妹たちを正しいとしたあなたの恥を負え (52節)

 主・神はここで不義を犯す女たちとして、ソドムとサマリヤを挙げています。ソドムは、アブラハムの時代に、「彼らの罪が満ちた」と神から宣告を受けて滅びた町です。

 サマリヤは、北イスラエル王国の首都でした。北王国はその成立の始めから、金の小牛を造って拝んだ国です。創立者ヤロブアムは王国の民が、エルサレムの神殿に行くことを恐れて、ダンとベテルに金の小牛を設置し、これを神殿礼拝の代わりとしたのです。
 それゆえ、北王国の霊的混乱はひどいものでした。やがて、アッシリヤに滅ぼされて、サマリヤには異教の民が移され、文字通り、サマリヤは「混血の子」の町になってしまうのです。それゆえ、ユダ王国の民は、サマリヤをイエス様の時代に至るまで軽蔑し続けました。しかし、神は、今やイスラエル(ユダ)の民は、ソドムやサマリヤより恥多く罪に満ちていると仰せなのです。

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 わたしは彼女たちの捕われ人を帰らせる。ソドムとその娘たちの捕われ人、サマリヤとその娘たちの捕われ人、また彼女たちの中にいるあなたの捕われ人を帰らせる。(53節)
 それは、あなたが、あなた自身の恥を負い、あなたが彼女たちを慰めたときにしたすべての事によって、あなたが恥じるためである。(54節)
 あなたの姉妹たち、ソドムとその娘たちは、もとの所に帰り、サマリヤとその娘たちも、もとの所に帰り、あなたとあなたの娘たちも、もとの所に帰って来る。(55節)

 かつて主のみ怒りの対象であったソドムやサマリヤも、やがて許されると言われるのです。それは、イスラエルの民が許されるときと、同じ時期に「もとの所に帰る」ことになるのです。こんなことは、イスラエルにとっては耐え難いことだったでしょう。

 私たちは自分が悪いことをして罰せられる場合も、もっと悪人と較べているかもしれません。自分の罪は軽い、あるいは自分の立場は特別であると思っているのに、軽蔑していた者たちと同時に「許される」なんて、プライドにかけて耐えがたいことなのです。

 あなたは、高ぶっていたときには、あなたの妹ソドムを悪いうわさの種にしていたではないか。(56節)
 しかしそれは、あなたの悪があばかれる前のことであって、今はアラムの娘たちや、その回りのすべての者、およびあなたを回りから侮るペリシテ人の娘たちのそしりとなっている。(57節)
 あなたは、自分のみだらな行ないと忌みきらうべきわざの報いを受けている。――主の御告げ――(58節)
 まことに、神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがしたとおりの事をあなたに返す。あなたは誓いをさげすんで、契約を破った。(59節)

 あるいは、主である神に、「文句を言いたい」イスラエルに対して、神は仰せです。

 だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる。(60節)

 神との契約をさげすんで破ったイスラエルの民に対して、主は、赦した上に、とこしえの契約を立てて下さる。若かった時に結んだ契約とは、シナイ契約です。それを覚えて下さったゆえに、今度はとこしえの契約を下さるのです。
 しかも、その中には、あなた(イスラエル)との契約になかった姉妹(ソドムやアラムやペリシテ人)をも、契約の中に入れて下さるのです。

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 わたしが、あなたの姉と妹とを選び取り、あなたとの契約には含まれていないが、わたしが彼女たちをあなたの娘としてあなたに与えるとき、あなたは自分の行ないを思い出し、恥じることになろう。(61節)
 わたしがあなたとの契約を新たにするとき、あなたは、わたしが主であることを知ろう。(62節)
 それは、わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。――神である主の御告げ――」(63節)

 ここはすでに、イエス様との契約――全世界の民が福音を通して救われる――ことが語られているのではないでしょうか。







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2017年01月23日

エゼキエル書53 大国のカサの下で(エゼキエル書17章1節〜6節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書17章1節)
 「人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、(2節)
 神である主はこう仰せられると言え。長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、(3節)


 この章は、主が仰せのとおり、たとえで語られています。何の予備知識もなく読むと、ほんとうに「なぞ」です。そこで、知識の乏しいさとうは、註解書のお世話になります。
 3節の、大鷲はバビロンの王ネブカデネザルを指す。〈大きな翼、長い羽〉は、その軍事的政治的な勢力が強大で広範に及んでいることを示し、〈色とりどりの豊かな羽毛〉は、その王国が色々な民族から成っていることを示すと考えられる。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 また、レバノンはレバノン杉の産地であったことから、バビロンは個々から大量の木を伐り出しました。自国に良い木材の産地がなかったからです。このことからこれがユダ王国に譬えられているのです。つまり、バビロンはユダ王国から多大の利益を得ていたのです。

 たしかに、バビロンはエルサレムを攻略したとき、贅を傾けて建築されたエルサレム宮殿の宝物と有能な多くの人材を、ごっそりとさらっていったのです。

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 その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。(4節)

 この〈若枝〉はエホヤキンのことです。(同注解書)、
 バビロンはエホヤキンをその母、家来たち、高官たち、宦官たちといっしょにバビロンに捕囚として連れ去ったのです。(U列王記24章12節) バビロンは商業で栄えた都市だったのですから、文字通り商人の町に置かれたのです。

 ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。(5節)
 
 この〈種〉は、エホヤキンの次の王ゼデキヤです。(同注解書)
 バビロンの支配下に入ったことは、ユダ王国にとって不幸な出来事です。けれども、主は、それは「肥えた地」「豊かな水のそば」に移されることだったと仰せです。
 歴史書を見ますと、バビロンは、エホヤキンを連れ去った後に、エホヤキンのおじゼデキヤを立て、ユダ王国を存続させたのです。大国のカサの下で、その時、一時的な平和と繁栄があったようです。

 それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。(6節)

 せっかくの繁栄でしたがゼデキヤ王は、バビロンの圧力をよしとは出来なかったようです。ユダ王国が、もう一つの大国との間にあったこともその理由でした。






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2017年01月24日

エゼキエル書54 二羽の大鷲の間でこころが揺れるとき(エゼキエル書17章7節〜16節)



 さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。(エゼキエル書17章7節)
 このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた。(8節)

 イスラエル(ユダ王国)をはさんだ二つの大国、東のバビロンのたとえのあとは、西のエジプトです。ぶどうの木は、もちろんユダ王国です。このぶどうの木は、一羽の鷲の下にいたのに、もう一羽の鷲の大きな羽の下にも枝を伸ばすのです。
 これは、主の目からごらんになって正しいあり方ではありませんでした。
ですから、次のように仰せになるのです。

 神である主はこう仰せられると言え。それは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの軍勢を必要としない。(9節)

 主は、もう一方の大きな鷲に枝を伸ばしたぶどうを、その根から抜き取り、身を摘み取り、若枝をことごとく枯らすと仰せなのです。

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 見よ。それが移し植えられたら、栄えるだろうか。東風がそれに吹きつけると、それはすっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう。」(10節)

 主がこのように言われるということは、末期のユダ王国に対する神の御意思がどこにあるかを示しています。
 私たちがよさそうに見える二つの選択肢で迷うとき、人の知恵で考えぬいても正しくないことが多いのでしょう。人はその初めから相争う者ですから、戦争や対立をどこまで遡っても正解は得られません。またどれほど先を読んでも正しい答えなど出ません。バビロンに支配されそうなユダ王国の王や首長たちは、完全な独立、安全保障を自分たちの知恵で勝ち取ろうと画策していたのです。しかし、大切なのは、彼らの不安定が、もともと、大国の横暴から来たのではなく、イスラエル人が偶像礼拝に迷ったことから来ていると思い知ることでした。

 次のような主のことばが私にあった。(11節)
 さあ、反逆の家に言え。これらがどういうことなのか、あなたがたは知らないのか。言え。見よ。バビロンの王がエルサレムに来て、その王とその首長たちを捕え、バビロンの自分のところへ彼らを連れて行った。(12節)
 そして彼は王族のひとりを選んで、その者と契約を結び、忠誠を誓わせた。バビロンの王はこの国のおもだった者たちも連れ去っていた。(13節)
 それは、この王国を低くして、立ち上がれないようにし、その契約を守らせて、仕えさせるためであった。(14節)
 ところが、彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうか。(15節)

 これは、U列王記24章25章に書かれている出来事――ヨシヤ王の子エホヤキムから、エホヤキンを経て、最後の王ゼデキヤまでのユダ王国に対する預言です。
 バビロンによって立てられたゼデキヤが、バビロンを裏切りエジプトの援軍を恃んだのです。ゼデキヤとバビロンの王との契約は人間同士の出来事ですが、神は、ここでは、そのような「道義に反する行い」を咎めておられるのです。この時、歴史を支配される神の御心は、「神の民」ユダがバビロン捕囚となり、70年後に帰還するというシナリオを決めておられたからではないでしょうか。

 わたしは生きている、――神である主の御告げ――彼は、自分を王位につけた王の住む所、彼が誓いをさげすみ、契約を破ったその相手の王の住む所、バビロンで必ず死ぬ。(16節)



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2017年01月25日

エゼキエル書55 それでも、イスラエルを回復させて下さるとの預言(エゼキエル書17章17節〜24節)



 戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。(エゼキエル書17章17節)

 きのうの続きです。
 ゼデキヤはバビロンのカサの下にユダ王国の王になったのです。バビロンとの契約は「宗主国条約(大王の契約)」(新実用聖書注解・いのちのことば社)で、いわば傀儡政権の王だったのです。これは屈辱だったかもしれない立場ですが、どのような形であっても、ユダ王国の温存でした。温存して下さるのは神だったでしょうが、神がバビロンをそのように用いておられる図です。しかし、ゼデキヤは、なんとか(独立国の)主権を回復しようと考えたのです。あるいは、ゼデキヤを取り巻く宮廷の貴族たちの意向だったかもしれませんが、エレミヤ書には、心が揺れるゼデキヤに、エレミヤが預言を与える場面が何度か出てきます。(エレミヤ書32章、37章3節、38章14節〜)

 バビロンに従うようにというエレミヤの預言は、けっきょく入れられないのです。

 彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。(18節)

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 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。(19節)
 わたしは彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をバビロンに連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく。(20節)

 「宗主国条約」では、条約締結双方の神(神々)が証人として立てられ、その神からの制裁を踏まえて誓いがなされた(同注解書)のです。ですから、この条約をさげすむことは、証人として立ち会って下さった自分たちの神をさげすむことになるのです。神がその不信の罪を咎められるのは当然です。

 彼の軍隊ののがれた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知ろう。」(21節)

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 神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。(22節)
 わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。(23節)

 迷いと違反の多いユダの民ですが、主は、けっきょくイスラエルを回復して下さると宣言されています。
ここでの「若枝の先」が、やがて来られる救い主、キリストを指しているのは明らかですね。

 このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(24節)






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