2017年01月10日

エゼキエル書40 心の中に偶像を秘める罪(エゼキエル書14章1節〜6節)



 イスラエルの長老たちの幾人かが来て、私の前にすわった。(エゼキエル書14章1節)
 そのとき、私に次のような主のことばがあった。(2節)

 この場面は、預言者エゼキエルにイスラエルの長老たちが会いに来て、相対している(向かい合っている)と想像してよいのではないでしょうか。彼らはエゼキエルとともに、捕囚の居住地ケバル川のほとりに暮している人たちです。この時代の捕囚は、私たちがいま考える捕虜とは少し違います。近代戦の中では、捕虜は勝者の定めた「宿舎」に閉じ込められ、労働を強いられ、監視されます。代わりに最低限粗末な衣食は保障されているのです。ふつうは兵士ですから男ばかりのキャンプでしょう。

 しかし、バビロン捕囚の時代は、敗戦国の民を政治的にどう活用するかが問題でした。アッシリヤは、制圧した国の民を大々的に移動させたのです。バビロンも同じようにしたのでしょう。元の居住先から家族もろとも引き抜き、まったく新しい場所に移すのです。そのように一つの国の国民をばらばらにしてしまうとどのような政治体でもどんな国でも機能しなくなって滅びてしまいます。
 バビロン捕囚に連れ去られた人たちは、だからある程度の自由があったと考えられています。その意味では、自分たちで生活をたてていかなければならなかったわけです。ケバル川のほとりで、彼らは何をしていたのでしょう。開墾したり、少しの牧畜をしたり、小さな商売を始める者もいたことでしょう。しかし、先行きの不安がいつも彼らに付きまとっていて、とうぜん神の御心を預言者に求めに来るのでしょう。

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 ところが、この時、主は、次のような預言をエゼキエルの口にお授けになります。

 「人の子よ。これらの者たちは、自分たちの偶像を心の中に秘め、自分たちを不義に引き込むものを、顔の前に置いている。わたしは、どうして彼らの願いを聞いてやれようか。(3節)

 神の前に来て、その御心を求める者がじつは心の中では、神をないがしろにする偶像を抱いていると、主は仰せです。

 人間は、態度や物腰や言葉で自分を偽ります。いえ、ときには、自分で自分の偽りに気付かないほど巧みに、偽るのです。
 ただし、神の前では何一つ、ごまかすことはできません。これは、聖書の神の全能性によるものですから、どんなに繕っても隠すことができないのです。(へブル人への手紙4章3節、伝道者の書12章14節)

 それゆえ、彼らに告げよ。神である主はこう仰せられると言え。心の中に偶像を秘め、不義に引き込むものを自分の顔の前に置きながら、預言者のところに来るすべてのイスラエルの家の者には、主であるわたしが、その多くの偶像に応じて答えよう。(4節)

 偶像は、一般に「形のあるもの」ですから、それを廃棄するときも「見せる」ことができます。偶像を祀らなければよいと思い、そのようにするのですが、しかもなお、偶像を「顔の前においている者」がいると、神は仰せです。
 これは、すごいことばですね。偶像は「手で鋳たもの」以上のものだと気づかされるのです。神社仏閣に行かず、仏壇を廃棄するように命じ、家からあらゆるアイドルを追放した人であっても、まだ、なお捨てきれない偶像はたくさんあります。お金、地位、名誉、役職、メダル、家族でさえも、神の上に置くとそれは偶像になります。

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 神の警告は、峻嶮(しゅんけん)です。

 偶像のために、みなわたしから離されてしまったイスラエルの家の心をわたしがとらえるためである。(5節)
 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。悔い改めよ。偶像を捨て去り、すべての忌みきらうべきものをあなたがたの前から遠ざけよ。(6節)

 まず、改めて、悔い改めをせよ。捕囚になった原因に思いを馳せ、自分たちの犯した罪を見つめ、神に謝罪せよと要求しておられるのです。








posted by さとうまさこ at 10:44| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする