2017年01月12日

エゼキエル書42 全能の神の奥行きを知る(エゼキエル書14章9節〜11節)



 エゼキエル書は、まるで自分に、自分が生きているこの時代に語りかけているようだと、さとうは驚いています。心の中の偶像については、今日の、キリスト者こそ真摯に受け止めなければならない神からのことばだと思います。
 たしかに、クリスチャンは、偶像をばかげたものだと「知って」います。手で刻んだ木彫や石像や金属の像を拝む事を聖書が禁じているのを「知って」います。天地を創造された大きな神が、そのような「物質」の中に閉じ込められるなんてあり得ないのを「知って」います。神社仏閣などの歴史的建造物や多くの仏像を見たとき、それらを、丹精込められた「工芸品」「芸術品」であるかも知れないとは思います。けれど、もとより礼拝の対象――神を意味する物だとは思いません。

 現代のクリスチャンにとって、その意味で、「見える偶像」は信仰を惑わされる対象ではないでしょう。むしろ、心の奥に隠れた偶像こそ見なければならないと、エゼキエル書から、指摘されているようです。

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 神は全能のお方ですから、「隠れた偶像」を見ぬくことがおできになります。場合によっては、それを取り去ることも、さらに加えることもなさるのです。また、あわれみをもって人を造り変え、どうにもならない悪人でも、主の御用をするようにして下さるのです。(例、ザアカイ・ルカの福音書19章1節〜9節
 しかし、私たちは、どんなに知識が豊かで、人柄のよい人間でも、クリスチャンでも、牧師でも、人の心の奥がすべてわかるわけではありません。

 難しいのは、私たち人間は、例えば、神から召されたエゼキエルでさえ、「惑わされる」かもしれないことです。りっぱな言動をする長老たちに、惑わされる可能性があるのです。それは、しかも、神ご自身から来ているわけです。

 もし預言者が惑わされて、ことばを語るなら、――主であるわたしがその預言者を惑わしたのである――わたしは彼に手を伸ばして、わたしの民イスラエルのうちから彼を根絶やしにする。(エゼキエル書14章9節)
 こういう者たちは、自分たちの咎を負う。この預言者の咎は、尋ね求めた者の咎と同じである。(10節)

 そのような過ちを、預言者(神に召された者)が犯すとき、神は、この預言者に、「尋ね求めた者」と同じ咎を下されるのです。

 それは、イスラエルの家が、二度とわたしから迷い出ず、重ねて自分たちのそむきの罪によって自分自身を汚さないためであり、彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。――神である主の御告げ。――」(11節)

 このような神の全能性――奥深さ――を知って行うとき、たしかに、信仰がより深まるのかもしれないと、厳粛な気持ちにさせられます。







posted by さとうまさこ at 09:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする