2017年01月13日

エゼキエル書43 たとえ、ノアとダニエルとヨブがいっしょになってとりなしても、免れないさばき(エゼキエル書14章12節〜20節)



 「悔い改めよ」「偶像を捨てよ」との神の命令は、とても厳しいものでした。これまでのように、神殿の中や家の中から、異教の偶像を取り除くだけではなく、「心の中の見えない偶像までも問題にされているからです。この箇所は、今日(こんにち)のキリスト者に付きつけられる課題だと思うのです。

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 ところが、つぎに、これにも増して、厳しい御告げがあります。

 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書14章12節)
 「人の子よ。国が、不信に不信を重ねてわたしに罪を犯し、そのためわたしがその国に手を伸ばし、そこのパンのたくわえをなくし、その国にききんを送り、人間や獣をそこから断ち滅ぼすなら、(13節)
 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。――神である主の御告げ――(14節)

 ここで、「国」と名指しされているのは、イスラエルのことです。一般名詞ではなく固有名詞として読むべきでしょう。神の選びの民に、神が造らせて下さったイスラエルは、当然神に誠実でなければなりません。偶像礼拝で、「パンの蓄えが亡くなったり」「飢饉や害獣の被害で国が滅びる」のは、神のさばきなのです。
 問題は、この厳しいさばきが下るときには、たとえ、ノアやダニエルやヨブがいっしょになってとりなしても、無駄であることです。彼ら、神の目にもっともかなった義人たちでさえ、彼らの命を救い出すことはできるけれど、イスラエルの他の民のためになにもできないのです。この時、イスラエルはそれほどひどい罪をおかしているのです。

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 この聖書箇所は、読み進むにつれ神のさばきの厳しさを、繰り返します。

 もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし、荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、(15節)
 たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出され、その地は荒れ果てる。(16節)
 あるいは、わたしがその地に剣を送り、『剣よ。この地を行き巡れ。』と言って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすとき、(17節)
 たとい、その地にこれら三人の者がいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出される。(18節)
 あるいは、わたしがその地に疫病を送って、人間や獣をそこから断ち滅ぼすために、血を流し、わたしの憤りをその地に注ぐとき、(19節
 たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、――わたしは生きている。神である主の御告げ――彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。(20節)

 ノアとダニエルとヨブのとりなしは、彼らの隣人――イスラエルの民に付いて無効なだけではありません。彼らにとってもっとも親しい家族、彼らの息子や娘たちをも救い出すことはできない、彼らの義は、彼らだけに及ぶと神は仰せです。
 そうして、ユダ王国は崩壊し、イスラエルはいったん消滅します。

 ノアの洪水のときのように、神は、ご自分の民の国を滅ぼされました。いったん、滅ぼして、リセットされようとしたのでしょうか。








posted by さとうまさこ at 09:47| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする