2017年01月14日

エゼキエル書44 神の深遠な愛――すべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。(エゼキエル書14章21節〜23節)



 まことに、神である主はこう仰せられる。人間や獣を断ち滅ぼすために、わたしが剣とききんと悪い獣と疫病との四つのひどい刑罰をエルサレムに送るとき、(エゼキエル書14章21節)
 見よ、そこに、のがれた者が残っていて、息子や娘たちを連れ出し、あなたがたのところにやって来よう。(22節a)

 
 それにしても、捕囚の地にいる民に、どのような義人のとりなしも「聞かない(効かない)」と神は宣告しています。なんと厳しいのだろうと思うのです。痛い思いの中にいる民に、慰めになるような言葉を掛けて下さってもよいではないですか、と、すぐに甘いほうに傾くさとうなど思ってしまうのです。

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 神の国の歴史を見たとき、たしかに、神が奇蹟的な救いから、容赦のない刑罰の宣告まで、その導きの中で、相当の幅のある対応をなさることは認めざるを得ません。
 ノアの時代には、たしかに大洪水でいったん地上をリセットしようとされたのです。ノアとその一家以外は、滅ぼされたのです。ゴモラとソドムに対するさばきも容赦のないものでした。

 人ひとりひとりに対しても、例えば、ヨブは徹底的に「痛めつけられている」のです。しかも、彼は「神の前に正しい人」でした。それだけに、その理由がわからないような「苦しみ」でした。神は、ヨブを陥れようとするサタンの魂胆をお見通しの上で、サタンに、ヨブに「触れる(苦しめる)」ことをお許しになるのです。「いのちにだけは触れるな」という御命令だったので、サタンもヨブを殺すことはできませんでしたが、それはそれでヨブを苦しめたのです。

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 エゼキエルが預言を語っているのは、神殿が破壊され、国が崩壊し、神の都エルサレムから引き抜かれて、異教の地で明日の見通しもない暮らしに、悶々としているイスラエルの民(ユダヤ人)です。心の奥底に偶像を抱いていても、まして、ノアやダニエルやヨブに執り成しを願う気持ちがあったとして、神様のお答えは厳しすぎるのではないでしょうか。

 ただ、もう一歩突っ込んで、神の御思いを見なければいけないのかなとも思います。
 捕囚は、神がイスラエル民族に、「意図して」お与えになった試練です。王国時代に、主はあらゆる方法で、南北両王朝に「神に立ち返る」よう警告しています。

 実際に、彼らが国をもち、見える組織や地位や富の中にいるとき、彼らはどんな試練を受けても、信仰を堅く保つことはできなかったのです。
 神殿を失い、国を失い、王を失い、アブラハムの子孫、シナイ契約とモーセの律法をいただいた民としてのアイデンティティを徹底的に失いわせるのは、神の意図されたことでもあったとも言えます。まさにゼロに見える地で、ゼロになって神に立ち返る――そのように信仰が精錬されることを、神は願っておられる。

 この章は、そのような深遠な神の愛のことばで閉じられています。

 あなたがたは彼らの行ないとわざとを見るとき、わたしがエルサレムにもたらしたわざわいと、わたしがそこにもたらしたすべての事について、慰められよう。(22節b)
 あなたがたは、彼らの行ないとわざとを見て慰められる。このとき、あなたがたは、わたしがそこでしたすべての事はゆえもなくしたのではないことを知ろう。――神である主の御告げ。――」(23節)









posted by さとうまさこ at 09:29| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする