2017年01月15日

エゼキエル書45 人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。(エゼキエル書15章1〜8節)



  次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書15章1節)
  人の子よ。ぶどうの木は、
  森の木立ちの間にあって、
  その枝が、
  ほかの木よりどれだけすぐれているのか。(2節)
  その木を使って何かを作るために
  その木は切り出されるだろうか。
  それとも、あらゆる器具を掛けるために
  これを使って木かぎを作るだろうか。(3節)
  見よ。それは、たきぎとして火に投げ入れられ、
  火がその両端を焼き尽くす。
  その中ほども焦げてしまえば、
  それは何の役に立つだろうか。(4節)
  見よ。それが完全なときでも、何も作れないのに、
  まして、火がそれを燃やして、焦がせば、
  もう、それで何が作れよう。(5節)
  それゆえ、神である主はこう仰せられる。
  わたしはエルサレムの住民を、
  わたしがたきぎとして火に投げ入れた、
  森の木立の間のぶどうの木のように、
  火に投げ入れてしまう。(6節)

 つる性植物であるぶどうは、地面を這うように成長し、みずからは大木にはなりません。自分でがんばって天に届くまで生育して森を形成しようと思っても、できないのです。
 聖書では、人は、しばしばこのぶどうにたとえられています。これは、たまたまカナンの地にぶどうが生育していたからなのか、神様が神のためにぶどうを備えておられた方が先なのかはわかりませんが、じつに適切なたとえです。
 ぶどうは木材としても弱いようです。何かを掛けるための木カギを作ることさえできません。そこで、実を結ばないならたきぎとして、火にくべられるだけです。木材にもならなかったぶどうの木がたきぎとして燃えた後はなお、何の役に立とうかと問われています。

 ここで火と言われているものは、イスラエルに迫っている異邦人の武力です。アッシリヤやバビロニヤのことです。これら大国を、森の木立だとしたら、イスラエルはぶどうの木なのです。

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  わたしは彼らから顔をそむける。
  彼らが火からのがれても、
  火は彼らを焼き尽くしてしまう。
  わたしが彼らから顔をそむけるそのとき、
  あなたがたは、
  わたしが主であることを知ろう。(7節)

 主は、「彼ら(イスラエル)から顔をそむける」と仰せなのです。もともと、イスラエルが大きくなり、エジプトを出てカナンにたどり着くことができたのは、まさに神の後押しがあったからです。神がつねにイスラエルと共にいて下さって、イスラエルは生きのびて来ました。その神に見放されたら、もうおしまいです。

  彼らがわたしに不信に不信を重ねたので、
  わたしはこの地を荒れ果てさせる。
  ――神である主の御告げ――(8節)










posted by さとうまさこ at 15:55| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする