2017年01月19日

エゼキエル書49 姦通する者のみにくさ(エゼキエル書16章22節〜34節)



 あなたは、あらゆる忌みきらうべきことや姦淫をしているとき、かつて自分がまる裸のまま、血の中でもがいていた若かった時のことを思い出さなかった。(エゼキエル書16章22節)
 あなたはこのすべての悪行の後――ああ。わざわいがあなたに来る。神である主の御告げ――(23節)
 あなたは自分のために小高い家を建て、どこの広場にも高台を造り、(24節)
 どこの辻にも高台を築き、通りかかるすべての人に身を任せ、姦淫を重ねて自分の美しさを忌みきらうべきものとした。 (25節)

 神の「神の民」への怒りは、この歯に衣着せぬ譬えによる、イスラエルへの非難に現れています。
 近い関係は、ひとたびうまくいかなくなると、あからさまな非難になります。「丸裸のまま血の中でもがいていた赤ん坊」などといわれるのです。
 その哀れな状態から拾い上げて下さった神に、私たちが真実に向き合えないのも、じつは、神がこのように「裸の私たち」をご存知だからかもしれないと思うほどです。

 私たち人間には、本源的に「恥ずかしいところ」「隠しどころが」あります。夫婦とはその一番の隠しどころを「さらしあう」関係なのです。
 神様が私たちの「隠しどころを」ご存知であるレベルは、人間同士の夫と妻の関係をはるかに超えています。
 神様は、じつに、私たちの「髪の毛の数まで数えておられる方」だからです。心の中の小さな悪も神様の目の前では隠しおおすことはできません。
 
 ★★★★★
 
 行いももちろん、神の御前に隠しおおせるわけではありません。

 あなたは、良いからだをした隣のエジプト人と姦通し、ますます姦淫を重ねてわたしの怒りを引き起こした。(26節)
 見よ。わたしは、あなたに手を伸ばして、あなたの食糧を減らした。そして、あなたを憎む者、あなたのみだらな行ないによってはずかしめを受けたペリシテ人の娘たちの思いのままに、あなたを任せた。(27節)
 あなたはそれでもまだ飽き足らず、アッシリヤ人と姦通した。彼らと姦通しても、まだあなたは飽き足らず、(28節)
 商業の地カルデヤとますます姦淫を重ねたが、それでも、あなたは飽き足らなかった。(29節)

 主は、エゼキエルに、このように罪状をあばかれて、それを民に伝えよと仰せなのです。

 なんとあなたの心は、あえいでいることよ。――神である主の御告げ――あつかましい遊女のするようなこれらのことをことごとく行なって。(30節)
 あなたは、どこの辻にも自分の小高い家を建て、どこの広場にも高台を造った。しかし、あなたは報酬をあざけったので、遊女のようではなかった。(31節)
 姦婦は、自分の夫の代わりに、ほかの男と通じるものだ。(32節)
 遊女には、すべて代価が支払われるのに、あなたは、自分のほうから持参金をすべての愛人たちに与え、彼らに贈り物をして、四方からあなたのところに来させて姦淫をした。(33節)
 だから、あなたの姦淫は、ほかの女の場合と反対だ。だれもあなたを求めて姦淫をする者はいなかった。あなたが報酬を支払い、だれもあなたに報酬を支払わなかった。だからあなたは反対のことをしたのだ。(34節)

 「どうかそれ以上言わないでください」と耳をふさぎたくなるような言葉が続きます。
 姦淫するにしても、男から誘われたのではなく、報酬を払って男を誘ったというのです。イスラエルという花嫁がどれほど値打ちを落としているかが、指摘されているのです。










posted by さとうまさこ at 11:34| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする