2017年01月25日

エゼキエル書55 それでも、イスラエルを回復させて下さるとの預言(エゼキエル書17章17節〜24節)



 戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。(エゼキエル書17章17節)

 きのうの続きです。
 ゼデキヤはバビロンのカサの下にユダ王国の王になったのです。バビロンとの契約は「宗主国条約(大王の契約)」(新実用聖書注解・いのちのことば社)で、いわば傀儡政権の王だったのです。これは屈辱だったかもしれない立場ですが、どのような形であっても、ユダ王国の温存でした。温存して下さるのは神だったでしょうが、神がバビロンをそのように用いておられる図です。しかし、ゼデキヤは、なんとか(独立国の)主権を回復しようと考えたのです。あるいは、ゼデキヤを取り巻く宮廷の貴族たちの意向だったかもしれませんが、エレミヤ書には、心が揺れるゼデキヤに、エレミヤが預言を与える場面が何度か出てきます。(エレミヤ書32章、37章3節、38章14節〜)

 バビロンに従うようにというエレミヤの預言は、けっきょく入れられないのです。

 彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。(18節)

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 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。(19節)
 わたしは彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をバビロンに連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく。(20節)

 「宗主国条約」では、条約締結双方の神(神々)が証人として立てられ、その神からの制裁を踏まえて誓いがなされた(同注解書)のです。ですから、この条約をさげすむことは、証人として立ち会って下さった自分たちの神をさげすむことになるのです。神がその不信の罪を咎められるのは当然です。

 彼の軍隊ののがれた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知ろう。」(21節)

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 神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。(22節)
 わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。(23節)

 迷いと違反の多いユダの民ですが、主は、けっきょくイスラエルを回復して下さると宣言されています。
ここでの「若枝の先」が、やがて来られる救い主、キリストを指しているのは明らかですね。

 このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」(24節)






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posted by さとうまさこ at 10:09| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする