2017年01月26日

エゼキエル書56 『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』(エゼキエル書18章1節〜13節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書18章1節)
 「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。(2節)

 このようなことわざがイスラエルでも繰り返し使われていたのだと、ちょっと驚くところです。でも、聖書は神のことばそのものですが、聖書が生み出される土壌であったイスラエルは、人間の社会です。とうぜん、あらゆる問題に満ちていたのでしょう。ある家族における「不幸の連鎖」なども、人間社会によく見られる現象です。
 一人の父親(あるいは母親)のふしだらや悪い行ないが、家族全体を不幸にし、そこで育った子供は最初からハンディがあってどうしても真っすぐ成長できず、自分たちが親になった時にも、親と同じことをする人たちはたくさんいます。

 仏教的には、それは「因縁」というようで、「因縁の悪い家」などと使われているのを聞いたとき、子供ながら何と「やりきれない」言葉だろうと思ったものです。
 イスラエルの律法では、親の罪のために子が罰せられてはならない。この罪のために親が罰せられてはならないとあります。それでも、「親の因果が子に報い」というような考え方は、俗世間では使われていたようです。

 しかし、神は、このような俗信を戒めておられるのです。そのようなことばを用いなくてもよい日が来ると約束して下さいます

 わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。(3節)
 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(4節)

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 「因果は巡る」というような罪の連鎖を断ち切る方法は、じつは難しくないのです。と神は、正しい人のあるべき行いを示して下さるのです。

 もし、正しい者なら、その人は公義と正義とを行ない、(5節)
 丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、

 「丘の上での食事」は、偶像を祀った高き所での礼拝を意味します。

 隣人の妻を汚さず、さわりのある女に近寄らず、(6節)
 だれをもしいたげず、質物を返し、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、(7節)
 利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、(8節)

 これらは、申命記24章10節〜21節にある戒めです。
 これは、全部まとめて、「隣人を自分のように愛しなさい」というイスラエルの神の戒めを具体的に現わしています。

 わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行なおう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。――神である主の御告げ――(9節)

 反対に、この戒めを守らず、隣人から収奪するような者は、「悪を行なった」のです。神が「忌み嫌うべきこと」をした者の血の責任はもちろん、彼自身(本人)にあるのです。

 しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、(10節)
 これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、(11節)
 乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、(12節)
 利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。(13節)









posted by さとうまさこ at 10:33| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする