2017年01月27日

エゼキエル書57 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――(エゼキエル書18章14節〜23節)



 子が父の罪を負う必要がないのは、子は、父の道を行かない「選択」ができるからです。

 しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、(エゼキエル書18章14節)
 丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、(15節)
だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、(16節)
 卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。(17節)
 彼の父は、しいたげを行ない、兄弟の物をかすめ、良くないことを自分の民の中で行なったので、彼は確かに自分の咎のために死ぬ。(18節)

 人間は、ある人の悪に腹を立てるとき、彼の家族をいっしょに石打にしたいという衝動があります。「お前の子供が殺人を犯したのに、よく平気で生きていられるな」というわけです。また、父親が罪を犯した場合も、非難されたり差別されたりするので、今の時代でさえ、死刑囚の家族などは戸籍そのものを別にしてしまいます。債権者は、子供の所へ押しかけて「支払え」と言いたいのです。

 あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか。』と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。(19節)

★★★★★

 罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。(20節)

 さらに、踏み込んださばきが示されています。一度罪を犯してしまった者にも悔悟の機会が与えられているのです。

 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。(21節)
 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。(22節)

 私たちが、気が付いたときに反省し、道を変えるなら、神は判決を変えて下さるのです。死ぬ者であっても生きると仰せになるのです。
 それは、神の人への大きな愛――慈しみの性質のためです。

 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。――神である主の御告げ――彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。(23節)








posted by さとうまさこ at 10:36| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする