2017年01月28日

エゼキエル書58 『主の態度は公正でない。』(エゼキエル書18章24節〜32節)



 しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。(エゼキエル書18章24節)
 あなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。(25節)
 正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。(26節)
 しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。(27節)
 彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。(28節)


 『主の態度は公正ではない』とは、どういう意味でしょう。だれが発していることばなのでしょう。
 イスラエルの家の、どうやら、「正しい人」たちです。正しい人が罪を犯したとき、「それでも、自分は『正しかったのだから、生きる」」と思いたいのです。あるいは、「『自分も善いことをしたではありませんか。』と、釈明したいのです。自分も間違うことはあるかもしれないけれど、神の民なのです」と、既得権をもちだす者もいたに違いありません。
 要点は、このようなことばを神に持ちだすのは、「正しく歩んできた」と思っている人だということです。悪者は、むしろ、悔い改めて行ないを変えれば「必ず生きる」と言われているのですから、感謝したはずです。

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 それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。(29節)
 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。(30節)

 この預言のことばが、ユダ王国のだれか特定の個人へではなく、「イスラエルの家」に対して語られていることに、あらためて気が付くのです。
 イスラエルの家とは、「神の選びの民」と同義語です。自分たちは、神に選ばれた特別の民だ、だから、正しいのだという思い込みがなかったでしょうか。
 神の民として、国と神殿を建て、戒めやおきてを守って生きている・・・。偶像礼拝があったかもしれないけれども、罪は犯したかも知れないけれど、「正しい期間」の「正しい行ない」を思い返してほしい。

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 註解書(新実用聖書注解・いのちのことば社)は、次のように気付きを与えてくれます。
 「イスラエルの民であること。自分が正しいことを行なえることは、自分の「義」ではない、人間の功績ではなく、神のめぐみなのだ。」
 だから、正しいことを行なった出来事を数え上げるのは、それ自体高慢の罪だとなるのでしょう。
 でも、私(たち)は、なかなかこの論理について行けませんね。神の御目ではなく、つい、人の立場で考えてしまうのですね。だから、『主の態度は公正でない。』と、反論したくなるのですね。
 
 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(31節)
 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ――だから、悔い改めて、生きよ。(32節)










posted by さとうまさこ at 09:46| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする