2017年02月01日

エゼキエル書61 苦難の理由を主にお伺いする(エゼキエル書20章1節〜7節)



 第七年の第五の月の十日に、イスラエルの長老たちの幾人かが、主に尋ねるために来て、私の前にすわった。(エゼキエル書20章1節)
 そのとき、私に次のような主のことばがあった。(2節)
 人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。――神である主の御告げ――(3節)


 エゼキエルのところへ、預言を求めるイスラエルの長老たちがやってきます。彼らはエゼキエルと同じ捕囚としてケバル川のほとりテル・アビブに住んでいた人たちです。第7年はBC591年、エルサレムが包囲される二年半前です。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 彼らは二回目の捕囚の民であったのですが、本国ユダとエルサレムはまだ存在していて、それだけに多くの煩悶を抱えていたのでしょう。

 あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ。あなたはさばこうとするのか。彼らの先祖たちの、忌みきらうべきわざを彼らに知らせよ。(4節)

 ここでの「あなた」「人の子」は、エゼキエルを指しています。この問いかけは、厳しい預言を伝えなければならないエゼキエルの責任と覚悟を確かめています。
 なぜなら、イスラエルの民が捕囚になっているのは、彼らの過ちが招いているのであって苦難は当然だからです。神は、ご自身がどれほど、イスラエルの民を慈しんで大切にしてこられたか、それに対して、イスラエルは神の御心を踏みにじり続けたかを、じっくり語ろうとされているのです。

 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、主であると言って彼らに誓った。(5節)

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 イスラエル民族の始まりはアブラハムですが、ヤコブに後の神の国の原型となる名前(イスラエル)と12部族の始まりとなる12人の達をお与えになって、いったん彼らをエジプトに導かれたのは、神・主でした。
イスラエルは、自分たちの主・神を「アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神」と呼んで、彼らがエジプトで苦難に直面したとき、神に叫んだのです。
 彼らの叫びにお答えになって、神は、イスラエルをエジプト後から連れ出されたことは、出エジプト記の最初に記されているとおりです。

 その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。(6節)

 この時、主は彼らを苦難の地から緊急避難させて下さっただけではないのです。行き先――彼らが入ることになる乳と蜜が流れる地というすばらしい国を約束して下さったのです。
 もちろん、それには厳しい条件もありました。

 わたしは彼らに言った。『おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。』と(7節)






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2017年02月02日

エゼキエル書62 エジプトの偶像をひきずるイスラエル(エゼキエル書20章8節〜12節)



 それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。(エゼキエル書20章8節)
 しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。(9節)
 こうして、わたしはエジプトの地から彼らを連れ出し、荒野に導き入れ、(10節)
 わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。(11節)
 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。(12節)

 出エジプト記の最初と創世記の終わりの間には、時間があります。400年と解説されています。ヤコブ(イスラエル)の一族70人ほどが、カナンの飢饉を逃れて、ヤコブの11番目の息子ヨセフのいるエジプトに移り住んだのです。
 ヨセフはエジプトの宰相になっていましたから、移住したイスラエル一族は最初は特別な地(ゴシュンの地)を与えられ、厚遇されたのです。しかし、何度も王朝が代る間に彼らは、奴隷同然の身分に落ちてしまい、さらに生命力が強くて人数が多いのでエジプト人から警戒されるようになったのです。出エジプト記1章は、この間の事情を記しています。

 とうとうパロは、非情な命令を出すのです。
「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まれなければならない。女の子はみな生かしておかなければならない。」
 その時代にモーセは生まれ、彼がパロの娘に拾われて王子として生活することになるのその時代背景がここにあります。

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 イスラエル人の苦難に目を留められた主は、ミデヤンの地に逃れていたモーセの前に、燃える柴となって顕現されます。(出エジプト記3章2節〜)
 そうして、モーセをイスラエル人のリーダーとして召され、エジプト後から彼らを導き出すようにお命じになるのです。
 モーセがエジプトに戻り、パロと交渉してイスラエル人を導き出す出エジプトのいきさつは知られているとおりです。とても感動的です。主・神の御力の大きさ、強さと万能性が、圧倒的なスケールで現れています。けっきょく、エジプトという当時の超大国のパロ(権力者)は、奴隷の群れに屈服して彼らを出国させるのです。

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 イスラエルの民は、シナイの山で十戒を授けられ、天地をお造りになった大きな神をアブラハム神、イサク神、ヤコブの神――主と呼び、契約を結んでいただきます。
 
 エゼキエル書20章8節、「それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。」の「それでも」は、神が彼らを特別扱いにして契約して下さったそのいきさつを指しています。

 イスラエルの民が王国を立てた後にまで、しばしば偶像礼拝に染まってしまうのは、主にとっては、看過しがたいことだったのです。主は、ご自分の義を現わされるために、イスラエルを「選びの民」とされたはずです。主の目からご覧になったら、エジプト人と同様イスラエル人も罪深い人間だったでしょう。それでも、あえて、主はイスラエルを選んで、下さったのです。その理由は、正しい神――偶像ではない神――に従う民を育成しようとされたからではないでしょうか。
 「それなのに・・・」と、荒野からユダ王国の滅亡まで、またしても偶像を持ち込むイスラエル人に、神は語っておられます。








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2017年02月03日

エゼキエル書63 イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず(エゼキエル書20章13節〜20節)



 それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。(エゼキエル書20章13節)
しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。(14節)
 だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に彼らを導き入れないと荒野で彼らに誓った。(15節)
 それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。(16節)
 それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。(17節)

 荒野の40年は、イスラエルの民の最初の訓練期間であったと読めます。出エジプトからシナイまで、二カ月ほどの行程でたどりついたイスラエルの民は、シナイ山で、主から十戒を授かるのです。これは、今日の時間感覚から考えても、異例の速さではないでしょうか。いくら、神様がすでに定めておられたことだったとしても、長い間奴隷生活をしていた民が、「神の選びの民」としてその役割を従順に間違いなく果たせるでしょうか。
 律法を厳格に守り行い、すべての民で「神の国イスラエル」の秩序を確かに築き上げていかなければならない。その理由は、神が「なんの見るべきところもなかった民を、わざわざ選びだして下さり、その栄光の働き」のために取り立てて下さったからです。彼らは、神の栄光を現わすために、選ばれたはずなのです。

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 荒野の40年の記録は、カナンに導くと仰せの神の御心を理解しないイスラエルの民が、何度も神に叛いて、神の怒りを招く出来事の連続です。
 安息日を守らなくて、石打になった者もいました。
 水や食べ物が枯渇して来ると、モーセに詰め寄り、エジプトに戻ろうと言い出したのです。はては、「神は、この荒野で飢え死にさせるために自分たちをエジプトから連れ出したのだろう」と、モーセに食ってかかりました。
 マナをいただくようになると、今度はその採取のおきてを破って、安息日にも集める者が出て来ました。

 もっと悪いのは、偶像を造って拝んだことでした。それは、神が十戒を下さったその直後に起りました。シナイ山に上って行ったモーセが、40日40夜山にこもっていた間、民はモーセの帰りを待てず、アロンに迫って金の小牛を作らせました。(出エジプト記32章〜)

 わたしは彼らの子どもたちに荒野で言った。『あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。(18節)
 わたしがあなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。(19節)
 また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。』と。(20節)








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2017年02月04日

エゼキエル書64 わたしの名のために(エゼキエル書20章21節〜24節)



 それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。(エゼキエル書20章21節)
 しかし、わたしは手を引いて、わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。(22節)

 聖書の神様のご性質を今風に言うと、「濃い」でしょうか。「情がほんとに深く、濃い」と表現するのがよいように思います。たぎるような愛とそびえたつ全能性のために、私たち人間の目からは、「畏れる」しかないご存在です。
 私(たち)は、親や先生が悲しむのをみたことがあります。大して悪い子どもではなかったと思いますが、子供は大人の目に、「心配と悲しみ」をもたらすのです。「ほっといて、一人でやるから」と言って転んだり、ケガをしたりするのです。
 大人の忠告を聞かずに失敗する子どもを、人間の親や大人たちも怒り哀しみますが、でも「聖書の神様」の怒りや哀しみは、人間の大人と子供の関係になぞられるには、あまりに「強くて、濃くて」、やはり、このたとえは、不適切かもと思うのです。

 出エジプトはBC1200年くらい(新実用聖書注解は、BC1445年)と推定されています。エゼキエルが神様から預言をいただいているのはBC590年くらいです。500年ものイスラエルの歩みの結果として、国の崩壊、バビロン捕囚があるわけです。神聖政治国家イスラエル、王制のイスラエルともに、神様の肝いりで立て挙げられたのです。モーセの正しさ、ダビデの信仰の深さがどれほどであったとしても、主がそのおつもりでなければ、イスラエルは存在しないのです。たしかに悪い王や民の間違いや叛きは数えられないほどだったと思いますが、それにしてもと、考えてしまうのです。「人の思いは始めから悪であるから」と仰せになった神さまなら、もう少し寛大に、「思ったほどよい子に育たなかったけれど、こんなものか」と思っていただければ・・・。

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 私なりに、神の熱いお怒りを納得するしかありません。それは、人間の大人が子供に期待している目標と、神様が私たちに期待しておられる基準とは、まったく違うためかもしれない! 人間なら、とにかく自立して生きるようになれば、まずまず良しとしなければならないのかもしれません。親(大人世代)はやがて死んでいくのであり、子供が大人になって世の中の主役になる、その子もやがて死んでいく前に次の世代が育つ。そうやって命をつないでいくのが生物としての生き様となる。それ以上、何を期待できる?
 短いスパンでは、いろいろ計画も夢もある人間ですが、何世代先の子孫たちをだれも指図できないことは「知って」います。どの親もみんな子どもと家の存続を願って来たけれども、王たちや滅び、王家や国も、ほとんど幻だったのです。

 しかし、神の御計画は、はっきりしています。神は、人類をふたたび御許に連れ戻そうというご計画をお持ちで、それを着々と実行に移しておられるのです。
 アブラハムが召されたのも、モーセが召されたのも、出エジプトが行なわれて、シナイでイスラエルと契約が結ばれ、やがてカナンにイスラエル王国を建てさせてくださったのも、神の御計画の内にあったことなのです。
 神の目的は、究極的に、全人類の救いです。イスラエルだけが幸せで楽しければよいということではないのです。

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 だが、わたしは、彼らを諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らすと荒野で彼らに誓った。(23節)
 彼らがわたしの定めを行なわず、わたしのおきてをないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。(24節)

 責任ある役割を負ったイスラエルに対して、神が激しくお怒りになるのは、ある意味当然のことです。
 この時代、イスラエル自身はもちろん、諸国も神がなさろうとしていることを理解できなかったのです。ですから、イスラエルが苦しんでいると、異教徒たちはあざけったことでしょう。だから、主は、「わたしの名のために」、苦しんでおられるのです。神の情を濃いと感じるとき、神の人への愛惜の深さをこそ思うべきなのかもしれません。








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2017年02月06日

エゼキエル書65 わたしの名のために2(エゼキエル書20章25節〜32節)



 わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた。(エゼキエル書20章25節)
 彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した。それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。(26節)

 主が繰り返し警告しておられる異教礼拝ですが、その大きな理由に、子どもを犠牲にささげる行為があります。子どもを火で焼いたり、火の中をくぐらせたりするなんて、今の感覚では理解不能です。けれども、犠牲は大切なものを献げると単純に考えるなら、子供は動物より価値のあるものです。しかも、初子だというのです。
 子ども、それも初子が「神の物である」との認識は、アブラハム、イサク、ヤコブの神が命じられたシナイ契約にもあります。初子は、だから神によって聖別されなければなりません。しかし、聖書の神(ヤーウェ)は、人間の初子は動物の犠牲で贖うようにと命じておられます。
 イエス様も、ヨセフの初子だったので50日目にマリヤとヨセフは宮に行き、犠牲を捧げています。
 「殺してはならない」が十戒に含まれている契約の民の中で、子殺しが行なわれることを、主が厭われたのは当然です。

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 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、なお、このようにして、わたしに不信に不信を重ね、わたしを冒涜した。(27節)
 わたしが、彼らに与えると誓った地に彼らを連れて行ったとき、彼らは、高い丘や茂った木を見ると、どこででも、いけにえをささげ、主の怒りを引き起こすささげ物をささげ、なだめのかおりを供え、注ぎのぶどう酒を注いだ。(28節)

 異教的な風習は、イスラエル以外の地では広く行われていたのでしょう。日本の宗教的儀礼と結び付けたくありませんが、日本でも霊山、霊木、神山、神木、森羅万象と気象現象に神が宿るとの考え方があります。素朴な状態では――つまり、神からの戒めを知らない民の間では――このような汎神論的感覚はむしろ当たり前だったのかもしれません。
 イスラエルは基本的には小さく弱い国です。それに対して異教の国の方が「羽振りがいい」のです。彼らがそこから出て来たエジプトは、当時豊かな大国でした。北のアッシリヤやバビロニヤもいわば「成功した帝国」のように見えました。
 交易やそれに伴う交流の中で、繁栄した国々の神々に近づき、祀ることがいつまでも続いたようです。

 そこで、わたしは彼らに言った。あなたがたが通う高き所は何なのか。今日でもその名をバマと呼ばれているが。(29節)
 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは父たちの行ないをまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯している。(30節)

 バマとは、「高き所」の意味だそうです。エゼキエルの時代には、異教の神を祀る場所を表す言葉が定着していたのでしょうか。
 もう国が崩壊寸前だったのだから、イスラエルは大いに反省するべきだったのに、エゼキエルの時代の人々も、彼らの父たちと同じことを行なっていると、主は仰せになっているのです。

 しかも、ささげ物を供え、幼子に火の中を通らせ、今日まであらゆる偶像で身を汚している。イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの願いを聞いてやれようか。わたしは生きている、――神である主の御告げ――わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。(31節)
 あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。(32節)

 イスラエルがまたしても、偶像礼拝に陥るのは異教の諸族――強くて繁栄した国――に見習いたい、あやかりたいと思う心です。
 繁栄や強さにあやかりたいというこの人間性、これが諸悪の根源かも知れないと思わせ得られます。「繁栄の神」(サタン)は、ほんとうの繁栄をもたらしたことはないと思うのですが。









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