2017年02月07日

エゼキエル書66 わたしは生きている(エゼキエル書20章33節〜38節)



 わたしは生きている、――神である主の御告げ――わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。(エゼキエル書20章33節)
 わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。(34節)
 わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。(35節)
 わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。――神である主の御告げ――(36節)

 私たちの信じる神様は「生きておられる」と、クリスチャンは知っています。これは、信徒であれば、じっさいに実感することです。もちろん、聖書の物語はすべてこの「生ける神」が主人公です。神が主役であることを忘れそうになると、聖書に躓きそうになります。聖書を読み進んでいると、偉大な人物、神から特別に召されたとしか言いようのない大きな信仰者の姿に圧倒されることがあります。たとえば、モーセ、サムエル、ダビデ、エリヤ、イザヤ・・・など。この書物の語り手であるエゼキエルにしても、決して隅においてよい人物ではありません。それでも、彼らは神が主役であって初めて輝く登場人物なのです。神の大きさ、圧倒的な御力、濃厚な人との関わり、一言でいうなら、「生きて働かれる神」が彼らを召されたことが、すべてなのです。

 生きておられるから、神は「わたしの名のために」と仰せになることができます。ご自分の名――じっさいには「わたしは、『わたしはあるという』者である」と自己紹介された(出エジプト記3章13節)創造主は、ご自分の名のために、国を失い、散り散りに散らされた選びの民を「立て直そう」と言われるのです。
 イスラエルの民を、力強い手を伸ばし、憤りをもって、「裁く」と仰せなのです。

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 わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、(37節)
 あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、  あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(38節)

 羊飼いたちは、羊を数えるために杖を使ったのです。一頭ずつ羊の上にかざしたのでしょうか。ときには、羊の間を杖で割って、立ち止まらせて数を数えたかもしれません。さらに、それらを右と左に、廃棄したり売ったりする羊と、飼育を続ける羊に分けたのです。ここは、ですから、羊を選び分けるときのとても具体的な描写ですが、もとより、人をそのように数え直し、彼らをえり分けるとのたとえになっています。
 神様が、捕囚になっている者の中から、反逆者と連れ戻す民をえり分けるとの、メッセージなのです。








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2017年02月08日

エゼキエル書67 後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。(エゼキエル書20章39節〜44節)



 さあ、イスラエルの家よ。神である主はこう仰せられる。おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい。後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。(エゼキエル書20章39節)

 生きておられる主は、羊を分けるように、杖を持って信徒を選り分けると仰せになったのです。これは、神のさばきを意味します。偶像を祀ってはばからないような者を、最終的に取り分けて滅ぼされるのは神です。
さばきを宣告された後で、「おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい」とは、主の厳しさが極まれりと思える箇所です。同時に、すべてを見通しておられる主でなければ言えない自信に裏打ちされたことばです。
主は、「そむいた民も結局、主の所に戻ってくる」のを知っておられるのです。

 わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上で、――神である主の御告げ――その所で、この地にいるイスラエルの全家はみな、わたしに仕えるからだ。その所で、わたしは彼らを喜んで受け入れ、その所で、あなたがたのすべての聖なる物とともに、あなたがたの奉納物と最上のささげ物を求める。(40節)

 悔い改めて戻ってきた民を、神様は「喜んで受け入れ」て下さるのです。奉納物や最上のささげ物を求めて下さるということばは、意味が深そうです。
 神は、怒っておられるとき、しばしば、「もうささげ物をもって来るな」と仰せなのです。

 愛のない相手からでも、「もらえる物は取っておこう」と考えかねないのは人間の賤しさです。神はもともと人との愛ある関係以外、何一つ必要とされていないのです。

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 わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。(41節)
 わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(42節)
 その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう。(43節)
 わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(44節)

 いつの日か、捕囚の民はエルサレムに戻って来ることができるのです。神がイスラエルの先祖に誓われた約束の地に帰って来ることができる。そうなれば、その時は、イスラエルの民の信仰は、いよいよ固くなっているはずなのです。主は、イスラエルの叛きの罪にもかかわらず、その御名のためにイスラエルを回復して下さるのです。
 それは主の真実な愛の現れです。それを経験する時、イスラエルの民は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」を、いよいよ自分たちの主であると思い知ると宣言しておられるのです。







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2017年02月09日

エゼキエル書68 ネゲブの森とイスラエル(エゼキエル書20章45節〜49節)



 さらに、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル書20章45節)
 「人の子よ。顔を右のほうに向け、南に向かって語りかけ、ネゲブの野の森に向かって預言し、(46節)

 創世記12章以降、ネゲブという地名は聖書にたくさん記されています。アブラハム(アブラム)は、父の家と別れてカナンにやって来たとき、最初、シェケムに入ったと書かれています。(創世記12章6節) その時、主が顕現されアブラハムに仰せになったのです。
 「あなたの子孫にわたしはこの地を与える。」
 アブラハムは自分に現れて下さった主のためにそこに祭壇を築いた
のです。

 アブラハムは、その後南下してベテルの東に天幕を張りました。また、主のためにその地でも、祭壇を築き主のために祈ったと記されています。(同8節)

 そのころ、カナンはアブラハムにとって「約束の地」になったのは疑いようのない事実です。しかし、まだ、彼らの一族はよそ者だったのでしょう。アブラハムは、そこからさらに南下するのです。

 それから、アブラハムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。(同9節)

 これがネゲブが聖書に初出する箇所です。ネゲブは特定の町ではなく、草原でした。その先は、もうツインの荒野なのです。
 牧草地と本拠地を求めて、アブラハムはカナンを縦断したのです。ところが、そこで飢饉が起り、アブラハムをエジプトに行かせることになったのです。エジプトでは、有名な話、アブラハムが妻サライ(サラ)を妹だと偽る事件が起こります。(同11節〜15節)
 案の定、サラの美しさがパロの目に留まって、サラはエジプト王の宮殿に召されてしまいます。しかし、人妻がべつの男に召されたこの事件で罰を受けたのは、偽ったアブラハムではなく、パロでした。(16節〜20節)
 ところが、これもアブラハムには、祝福される結果となりました。パロは、多くの財産と共にアブラハムをエジプトから追い払ったからです。

 アブラハムは、カナンの新参者牧畜民としてではなく、多くの家畜や使用人や財産をもった有力な族長として、カナンに戻ってくるのです。

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 最初、なにげない地名として登場してくるネゲブですが、たいへん大きな意味が会ったのだとわかります。ネゲブが飢饉にならなかったら、アブラハムはエジプトに行かず、エジプトに行かなかったら、豊かな遊牧民になることもありませんでした。

 主は、エゼキエルに対して、ネゲブの方向に向かい、預言をせよと命じられました。

 ネゲブの森に言え。『主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしはおまえのうちに火をつける。その火はおまえのうち、すべての緑の木と、すべての枯れ木を焼き尽くす。その燃える炎は消されず、ネゲブから北まですべての地面は焼かれてしまう。(47節)

 主は、アブラハムを名のある族長にしたネゲブの飢饉、これを思い出させようとされています。今度は、ネゲブは燃え、その火は消えないという預言です。これは、何を意味しているのでしょう。捕囚の民の中に、バビロンに捕らわれていてもエジプトからの援軍を当てにしている者がまだまだいたのでしょう。しかし、イスラエルの民はエジプトへ行くことはできない。途中の道は火が燃えているのです。
 もちろん、かつて飢饉でアブラハムをエジプトに追いやられたのが、主であったように、ここでエジプトへの道を立たれるのも、主であると、主は知らしめられているのです。

 そのとき、すべての者は、主であるわたしが燃やしたことを見るであろう。その火は消されない。』」(48節)

 そのような厳しい預言をした結果は、エゼキエルには苦いものでした。民は信じなかったのです。

 そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」(49節)








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2017年02月10日

エゼキエル書69 イスラエルの地に向かって預言せよ(エゼキエル書21章1節〜7節)



 エゼキエルに、「ネゲブの森を焼き尽くす」と言われる主は、つぎにもっと具体的な場所を特定されて命じられます。

 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書21章1節)
 「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。(2節)

 エルサレムは、ユダの人々にとっては、いわば「最後の砦」です。そこは神ご自身の都であり、エルサレムがあるゆえに、イスラエル(ユダ王国)は神の国であるはずです。正義はエルサレムにあり、ですから、いわゆる「錦の御旗」も、神の民にあるのです。
 エルサレムと聞いたら、ユダヤ人はみな思わず頭を深く下げたのではないでしょうか。いまの私たちなら、「神さま」「イエスさま」「主」といったことばで、思わず首を垂れるのですが、同じことです。

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 どのような託宣が下るのだろうと、だれもが思わず威儀を正したでしょうか。
 それは、思いもかけない厳しいお言葉でした。

 イスラエルの地に言え。『主はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。わたしは剣をさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす。(3節)
 わたしがあなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼすために、わたしの剣はさやを離れて、ネゲブから北まですべての者に立ち向かう。(4節)

 ユダの人々にとっては、頼みの綱――最後のよりどころである「主」「アブラハム、イサク、ヤコブの神」ご自身が、剣を抜いて「あなた」に立ち向かうと仰せなのです。あなたとは、イスラエルの民――捕囚となっている民とまだエルサレムに残されている民です。
 バビロンを滅ぼすと言って下さるのではなく、主はご自分の民を打つために剣をさやから抜いたのです。ユダの南――ネゲブだけではなく、北、もともとのイスラエルの全土のすべてのものに立ち向かうとの宣告です。

 どうしてこんな恐ろしいことになったのでしょう。前章の最後にエゼキエルが訴えていることば――民がエゼキエルを嘲ってその預言を「たとえ」だと言った態度に答えておられるのではないでしょうか。
エゼキエルに預言を求めに来た長老たちは、神を嘲るつもりはもとよりありませんでした。しかし、預言が自分たちの意に沿わない内容だったので、彼らはエゼキエルが「神の預言者」であることを、たちまち忘れたような発言をしたのです。自己中心の彼らは、本当の意味では、神を恐れていなかったのかもしれません。

 さらに、峻厳な宣告は続きます。

 このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』(5節)
 人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。(6節)
 彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか。』と言うなら、そのとき、あなたは言え。『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者は心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。今、それが来る。それは実現する。・・神である主の御告げ。・・』」(7節)









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2017年02月11日

エゼキエル書70 一振りの剣が研がれている(エゼキエル書21章8節〜12節)



 ついで、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル書21章8節)
  「人の子よ。預言して言え。
  主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。(9節)


 つぎに主は、エゼキエルに、方角ではなく出来事を見るようにと仰せです。ネゲブやエルサレムの方向に向かせたのは、「一振りの剣が研がれ、みがかれている」からです。
 剣は、聖書では、人がそれを用いるときは、まさに「人殺し」を意味する時です。「剣を取る者は剣で滅びる」と、神がその使用を否定されている殺人の道具です。
 聖書を概観していますと、神が厭われた人の罪、その歴史は、「剣」と「姦淫」に尽きるように思えます。その元は、貪欲です。「他者の物が欲しい」という欲望です。その究極は、神がお持ちの栄誉や権威でさえ、自分のものにしたいという自己中心ではないでしょうか。

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 「食べてはならない」と禁じられた木の実を食べたのは、「空腹のため」ではありませんでした。「目に麗しい」その実に手を伸ばさせたのは、「あなたはけっして死にません」というサタンの声でした。自分の欲する声を後押ししてくれる声にそそのかされたのは、結局、自分には選ぶ権利があると言った自己中心だったのではないでしょうか。
 貪欲のもとは、すべからく「自分の目に好もしく」思えたものをすべて欲する「欲望」を合理化するサタンの声です。姦淫も殺人も結局、そのような欲望から発しているのです。カインがアベルを殺したのも、神の目がアベルのささげ物に目を留められた(と思った)時、彼は名誉(神の愛)を自分のものにしたいという衝動に勝てなかったのです。

 剣は、人の欲望が生み出した殺人兵器です。しかし、ここでは、人と人の殺し合いが預言されているのではなさそうです。

  虐殺のために研がれ、
  いなずまのようにそれはみがかれた。
  われわれはそれを喜ぼうか。
  わたしの子の杖も、すべての木のように、
  退けられる。(10節)
  その剣はみがかれて手に握られ、
  それは、研がれて、みがかれ、
  殺す者の手に渡される。(11節)

 磨かれ、研がれた剣をもっているのは、「殺す者の手」です。「渡した」のは、神ご自身です。
 こんな預言を嘆かずに、聞けるものはいるでしょうか。

  叫べ。泣きわめけ。人の子よ。
  それはわたしの民の上に下り、
  イスラエルのすべての君主たちの上に
  下るからだ。剣への恐れがわたしの民に起こる
  それゆえ、あなたはももを打って嘆け。(12節)









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