2017年02月17日

エゼキエル書76 忌み嫌うべきわざを告発する。2(エゼキエル書22章13節〜16節)



 見よ。おまえが得た不正な利得と、おまえの中に流された血のために、わたしは手を打ち鳴らす。(エゼキエル書22章13節)

 「手を打ち鳴らす」のは、「敵に対する勝利と嘲りのしるし」(新実用聖書注解・いのちのことば社p1106)です。主が、ご自分の民を嘲ってこのようにされるとは、イスラエルの民にとって、救いのない状態です。主のあわれみはどうなってしまったのでしょうか。イスラエル王国の歴史を通して、何度も何度も、主はお怒りになり、警告を与え、それでも、あわれみのうちに王国を継続させて下さったのを、聖書読者は思い出します。
 しかし、主は、とうとう見切りをつけられたのでしょうか。

 そうかもしれません。エレミヤの預言を聞く者はなく、エゼキエルの預言に対しても、自分から預言を求めていながら、「たとえで語っている」と批判するのです。→(エゼキエル書20章49節)
 真実な預言者を退けて、偽預言者がのさばるなら、もう回復の余地はないと、見られたのかもしれません。

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 わたしがおまえを罰する日に、おまえの心は耐えられようか。おまえの手は強くありえようか。主であるわたしがこれを語り、これをする。(14節)

 主のなさることに、対抗できる力は人間にはありません。主の前では、私たちは平伏する以外にないのです。

 力尽きたことを認めて、自分の叛きの罪を認めて、悔い改めるときに、それでも「滅ぼす」と、主は仰せになりません。
 次のような、思いがけないことばを下さいます。

 わたしはおまえを諸国の民の中に散らし、国々に追い散らし、おまえの汚れを全く取り除き、(15節)
 諸国の民が見ている前でおまえにゆずりの地を与える。このとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。」(16節)

 諸国の民の中で、汚れを取り除いて下さったあと、諸国の民の見ている前で、「ゆずりの地を与える」と宣言されます。私たちは、最後は、主を主であると再認識することになるのですね。感謝です。







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2017年02月18日

エゼキエル書77 銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる。(エゼキエル書22章17節〜22節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書22章17節)

 今度の主のことばは、金属の精錬と心と信仰に不純物をいっぱい抱え込んでいる人間とを対置させています。偶像礼拝にまみれ、主の神殿を汚し、主からいただいていたおきてに叛いて罪を犯し続けるイスラエルの民を、金属の精錬の時に生じる「カナカス」にたとえているのです。カナカスとは、金属に含まれている不純物で、文字通り「カス」なのです。

 「人の子よ。イスラエルの家はわたしにとってかなかすとなった。彼らはみな、炉の中の青銅、すず、鉄、鉛であって、銀のかなかすとなった。(18節)
 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたはみな、かなかすとなったから、今、わたしはあなたがたをエルサレムの中に集める。(19節)
 銀、青銅、鉄、鉛、すずが炉の中に集められるのは、火を吹きつけて溶かすためだ。そのように、わたしは怒りと憤りをもってあなたがたを集め、そこに入れて溶かす。(20節)

 主が、求めておられるのは「銀」です。当時の社会で貨幣代わりに使え、価値のあった銀こそ、主が神の民イスラエルに求めておられたものなのでしょう。銀は、じっさいには硫化鉛の鉱石で銀を含んでいるものから、銀を分離した(新聖書辞典・いのちのことば社)のです。しかし、銀でない金属も、銅や鉄であっても、自然の状態では不純物の化合した石として存在しているのですから、やはり、精錬をしたのです。それは、はげしく火を噴きつける作業で、作業を行う者も、炉の中の状態も、ただならぬ状況に置かれるのです。

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 神・主がみずからを、製鋼工の役割りに置かれています。
 さとうは、溶鉱炉の作業は、映像でしか見たことがありませんが、固い金属を溶かすほどですから、炉の中に投げ込まれたら、人間などひとたまりもありません。
 まさに、エルサレムの壊滅、そこにいる人々の殲滅が預言されています。

 わたしはあなたがたをかり集め、あなたがたに向かって激しい怒りの火を吹きつけ、あなたがたを町の中で溶かす。(21節)
 銀が炉の中で溶かされるように、あなたがたも町の中で溶かされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知ろう。」(22節)

 しかし、これはたんに「絶滅」の予告ではないのです。銀が炉の中から取られるように、神の怒りの火で溶かされたエルサレムのなかから、本物の銀が取りだされるとの預言にもなっています。「主であるわたし」と言われる方がなさることなのですから、謙遜にエゼキエルの預言を聞く者なら、そこの希望を見出したのではないでしょうか。
 主は、イスラエルの民に、「(おまえたちは)カナカスとなった」とお怒りになっています。それでも、もう一度炉に入れて精錬をして下さるというのは、主が、やはりイスラエルの民を見捨てておられないのを意味していると思われます。神の愛の大きさ深さを覚えるところです。







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2017年02月19日

エゼキエル書78 そこには預言者たちの陰謀がある。(エゼキエル書22章24節〜31節、出エジプト記20章3節〜6節)



 次のような主のことばが私にあった。
 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。(エゼキエル書22章24節)
 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。(25節)

 旧約聖書の神は「恐ろしい神」などといわれます。人々の不信仰を厳しく糾弾し、かならず罰せられる方のように感じられるからでしょう。その拠って立つ理由は、神との契約(シナイ契約)に違反しているからです。神の戒めをないがしろにすることです。それ以上に、神がお怒りになるのは、「偶像礼拝」です。
 十戒を見ると、最初の4つの戒めは、神に対するもので、とりわけ最初の二つは、偶像礼拝を厳しく戒めるものです。

 あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記20章3節)
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(4節)
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、(5節)
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(6節)

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 聖書を読んでくると、神は、契約の書面を交わして神聖政治国家イスラエルをお立てになり、それで良しとされたのではないことは、明らかです。
 この時、神は、神の国を実際に機能させるために制度も与えて下さったのです。それは、幕屋、聖所、祭司という具体的な神との「関係維持」の制度です。
 どんなに素晴らしい国家を造ってもらっても、その後、造って下さった方がそこから去ってしまわれては、なにもならないことを、神様はご存知だったのでしょう。それは、親が子供に学校に行かせ、授業料を払い、勉強部屋を立てて「あとは一人で頑張りなさい」と、何処かへ行ってしまうようなものです。

 イスラエルの民に契約をお与えになって神――ヤーウェと呼ばれる方は、もとより、人の弱さをよく御存じですから、イスラエルとの関係を維持し続けて彼らと固いきずなを結び、ご自分の国を地上に実現するおつもりだったに違いありません。
 ところが、この神の御心は、イスラエルの民がシナイから動き出していくらも経たないうちに、裏切られ続けるのです。
 荒野の40年が何故もたらされたのか。また、士師記の時代の混迷と悲惨から、イスラエル王国を建国するに至る流血の道を見るたびに、聖書読者は、神の御計画の理想はどこにあるのかと、懐疑的になるのではないでしょうか。
 ダビデ王国は、神の国の大きな金字塔のように見えました、しかし、それさえ、結果的に滅亡への道であるかのように、王朝は衰退していくのです。そして、ついに、国が滅亡し、民は捕囚に取られるのです。しかも、その原因を深刻に受け止められない民なのです。

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 自分たちの親ともいうべき神を棄てて偶像に走り、祭司が律法を犯し、安息日がないがしろにされ、首長たちが私利を貪っては、「神の国」は機能するはずがないのです。

 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。(26節)
 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。(27節)

 しかも、形式的には、神を敬っているかのように「嘘をつく」人びとが指導者です。偽預言者が次のように言うのです。

 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、主が語られないのに『神である主がこう仰せられる。』と言っている。(28節)
 一般の人々も、しいたげを行ない、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。(29節)
 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。(30節)

 弱い者や貧しい者や在留異国人が虐げられ、事実上ボロボロになった国の破れ口を修理する者もいません。

 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ――」(31節)

 カナカスになったと宣告され、もう一度炉に投げ込まれるのは、せめてもの、神様の愛だとしか言いようがなさそうです。







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2017年02月20日

エゼキエル書79 オホラとオホリバ(エゼキエル書23章1節〜18節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書23章1節)
 「人の子よ。同じ母の娘である、ふたりの女がいた。(2節)
 彼女たちはエジプトで淫行をし、若いときから淫行をし、その地で彼女たちの胸は抱きしめられ、その処女の乳房はもてあそばれた。(3節)
 その名は、姉はオホラ、妹はオホリバで、ふたりはわたしのものとなり、息子や娘たちを産んだ。その名のオホラはサマリヤのこと、オホリバはエルサレムのことである。(4節)
 オホラは、わたしのものであったのに、姦通し、その恋人、隣のアッシリヤ人を恋い慕った。(5節)
彼らは、青色の衣を着た総督や長官で、すべて麗しい若い男たちであり、馬に乗る騎兵であった。(6節)
 彼女は彼らと姦通した。彼らはみなアッシリヤのえり抜きの者であった。彼女は恋い慕った者のすべての偶像で自分の身を汚した。(7節)
 彼女はエジプト以来の淫行をやめようとしなかった。それは、彼女の若いとき、エジプト人が彼女と寝てその処女の乳房をもてあそび、彼女に情欲を注いだからである。(8節)
 それでわたしは、彼女が恋い慕う恋人たちの手、アッシリヤ人の手に彼女を渡した。(9節)
 彼らは彼女の裸をさらけ出し、その息子や娘たちを奪い取り、彼女を剣で殺してしまった。こうして、彼女にさばきが下され、彼女は女たちの語りぐさとなった。(10節)
 妹のオホリバはこれを見たが、姉よりいっそう恋情を腐らせ、その淫行は姉の淫行よりひどかった。(11節)
 彼女は隣のアッシリヤ人の総督や長官を恋い慕った。彼らはみな盛装をし、馬に乗る騎兵たちで、麗しい若い男であった。(12節)
 わたしは彼女が身を汚すのを見たが、ふたりとも同じやり方であった。(13節)
 彼女は淫行を増し加え、壁に彫られた人々、朱で描かれているカルデヤ人の肖像を見た。(14節)
 それらは腰に帯を締め、頭には垂れるほどのターバンをつけ、みな侍従のように見え、彼らの出生地カルデヤのバビロン人の姿をしていた。(15節)
 彼女はそれを一目見ると、彼らを恋い慕い、使者たちをカルデヤの彼らのもとに遣わした。(16節)
 バビロン人は、彼女のもとに来て、恋の床につき、彼女を情欲で汚した。彼女が彼らによって汚れたものとなったときに、彼女の心は彼らから離れ去った。(17節)

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 聖書読者がもっとも戸惑う設定の一つに、イスラエルとほかの国々がかなりあらわな性的関係として語られていることがあると思います。

 「聖書」というのは、Bible 、もともとの意味は「書物」だということです。けれども、漢字でこれを見ると、その書物はとりわけ「聖なるもの」について書かれていると予想するのです。ナイーブな読者は、あるいは、聖書をまったく知らない人たちは、聖書を「聖人列伝」または、聖なる事柄だけについて言及した箴言のようなあるいは論語のような言葉集と思って読み始めます。
 初めて、教会へ来た人たちは、たいてい、福音書から読むことを勧められますし、福音書はまさに「Good News(Gospel)」です。主役であるイエス・キリストは,人となってくださった「神」です。神の御子であられたのに、父なる神の御命令で「神の御位(みくらい)を捨てて」人となって、世に来てくださったのです。これは、深遠で美しい物語です。

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 イエスさまはとても率直な言葉で、私たちの罪をあばかれています。それは同時に、神の基準がいかに高いものかを示しておられることです。
 神は、旧約聖書において、人間として守らなければならない戒律を、十戒という形で下さっています。私たちは、自分たちを創造して下さった神を崇め敬い、礼拝するのは当然です。その神は、唯一の神、万物の創造者であることは聖書の最初に記されています。イスラエルはとくに、その神によって最初に「救い出された」選びの民であることも、十戒の始めに記録されています。
 同時に、人間として、父母を敬うこと。殺してはならないこと、盗んではいけないこと、姦淫してはいけないこと、偽りの証言をしてはならないこと、隣人のものを欲しがってはならないこと、などを戒められています。
 しかし、イエス様は、これらの戒めにどれも一歩突っ込んだ註解を付けておられて、つい、要領よく戒律を守ろうとする人々を、震え上がらせています。

 父と母を敬っていると言いながら、父と母の食べ物を減らす者がいると指摘されています。
 殺してはならない、盗んではならないと行った戒律は、いわば隣人に対するものでした。同じイスラエル人の間では「なんじの隣人を汝自身のように愛せよ』と命じられたのでした。けれども新しい戒めでは、互いに愛し合いなさいと命じられています。もう、同じ宗教だから、同じ血族だから、同じ民族だから愛し合うのではないのです。これは難しいのではないでしょうか。
 また、姦淫は、じっさいに不倫をして交わることだけではなく、「心にみだらな思いを抱いて女を見る者」も同罪だと仰せなのです。
 このような新約の基準は、永遠の命を約束された者、イエス・キリストを信じる者としての一歩進んだ戒律として示されたのですが、あまりにも、潔癖すぎる高すぎる基準です。これだけでも、世の人には、かなり高いハードルである!と嘆息している同じ人が、旧約聖書を読むと、そこらじゅうに、姦淫の事例が語られるのです。

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 聖書は、私たちと神との関係は、父と子、創造者と被造物だと語り、始めるのですが、シナイ契約では、それは、結婚契約になぞらえられているのです。
 それを理解することなしに、また、男性が圧倒的上位の立場と力を振るった時代の男女関係という背景を理解することなしには、神の力強い保護とその保護をないがしろにして他の男に走る女という図式をのみ込むことは難しいのです。

 エゼキエル書23章は、このような前提の上で読み進めればさほど難しい箇所ではないと思います。
  
 それでも、彼女は自分の淫行をさらけ出し、自分の裸をあらわした。それで、わたしの心は、かつて彼女の姉から離れ去ったように、彼女からも離れ去ってしまった。(18節)










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2017年02月21日

エゼキエル書80 見よ。わたしは、あなたの心がすでに離れ去ったあなたの恋人たちを駆り立ててあなたを攻めさせ、(エゼキエル書23章19節〜24節)



 イスラエルの民は、一族70人でエジプトに移り住んで以来、400年にわたってエジプトで育まれ、民族と言えるまでに大きくなりました。この時、主なる神は、アブラハムの家のヤコブの子孫がエジプトに移住するように導かれたのです。エジプトはナイル川に育まれた豊かな地域で、私たちが今日でも「分類するように」世界の四大文明の一つが、そこで育まれたのです。
 パレスチナの一遊牧民であったヤコブたちが、いわば流浪の生活からエジプトに移り住んだのは、意味のある事でした。パロからゴシュンの地に住むことを許されて、定住するのです。(創世記47章4節〜6節)
 けれども、豊かさや安定を保障してくれた権力は、偶像礼拝の場所でした。

 しかし、彼女は、かつてエジプトの地で淫行をしたあの若かった日々を思い出して、淫行を重ね、(エゼキエル書23章19節)
ろばのからだのようなからだを持ち、馬の精力のような精力を持つ彼らのそばめになりたいとあこがれた。(20節)
 このように、あなたはエジプト人があなたの若い胸を抱きしめ、あなたの乳房をもてあそんだあの若い時のみだらな行ないをしきりに望んだ。(21節)

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 イスラエル人はその地で増えすぎ、やがて、エジプトの権力者から迫害されるようになり、自分たちの主――アブラハム神、イサク神、ヤコブの神に叫んで、救いを願うのですが、そして、事実彼らの先祖の神は、モーセを召し出してイスラエルの民をエジプトの地から救い出して下さるのです。

 イスラエルにとって、エジプトは、魅惑的な地であることに変わりはなかったようです。すでに、荒野を歩きはじめたときに、その困難にひるんで、「エジプトに戻ろう」と叫ぶ者たちがいました。理由は、エジプトの豊かさでした。

 「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。(民数記11章4節5節)というわけです。
 食べ物は、豊かさのもっとも基本的な基準でしょう。人は、胃袋、舌、それから目を満足させると、次は、本能的な奥深い欲求――が、満足を求めて叫ぶのかもしれません。
 偶像礼拝では、みだらな性的行事や乱交が儀式の中に組み込まれていたと言います。

 快楽の記憶、また、欲求充足の記憶は、神に導かれカナンで国を立てた後にもイスラエルを、姦淫に駆り立てているのです。しかし、それは、遊女の結末にも似た悲惨な事態を招くのです。

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 それゆえ、オホリバよ、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、あなたの心がすでに離れ去ったあなたの恋人たちを駆り立ててあなたを攻めさせ、四方からあなたを攻めによこす。(22節)
 彼らはバビロン人、すべてのカルデヤ人、ペコデや、ショアや、コアの人々、それに加えてアッシリヤのすべての人々である。またすべての麗しい若い男、総督、長官、侍従、議官、馬に乗る者たちである。(23節)
 彼らは、軍馬、戦車、車両、および民の大集団を率いてあなたを攻めに来、大盾、盾、かぶとを着けて四方からあなたを攻める。わたしが彼らにさばきをゆだねるので、彼らは自分たちのさばきに従ってあなたをさばく。(24節)

 偶像礼拝の国、姦淫の相手は、パレスチナの北側にのたくさんいました。イスラエル人は、それら多くの男たちと、姦淫をしたため、神から裁かれると宣告を受けるまでになってしまいました。







posted by さとうまさこ at 09:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする