2017年02月06日

エゼキエル書65 わたしの名のために2(エゼキエル書20章25節〜32節)



 わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた。(エゼキエル書20章25節)
 彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した。それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。(26節)

 主が繰り返し警告しておられる異教礼拝ですが、その大きな理由に、子どもを犠牲にささげる行為があります。子どもを火で焼いたり、火の中をくぐらせたりするなんて、今の感覚では理解不能です。けれども、犠牲は大切なものを献げると単純に考えるなら、子供は動物より価値のあるものです。しかも、初子だというのです。
 子ども、それも初子が「神の物である」との認識は、アブラハム、イサク、ヤコブの神が命じられたシナイ契約にもあります。初子は、だから神によって聖別されなければなりません。しかし、聖書の神(ヤーウェ)は、人間の初子は動物の犠牲で贖うようにと命じておられます。
 イエス様も、ヨセフの初子だったので50日目にマリヤとヨセフは宮に行き、犠牲を捧げています。
 「殺してはならない」が十戒に含まれている契約の民の中で、子殺しが行なわれることを、主が厭われたのは当然です。

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 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、なお、このようにして、わたしに不信に不信を重ね、わたしを冒涜した。(27節)
 わたしが、彼らに与えると誓った地に彼らを連れて行ったとき、彼らは、高い丘や茂った木を見ると、どこででも、いけにえをささげ、主の怒りを引き起こすささげ物をささげ、なだめのかおりを供え、注ぎのぶどう酒を注いだ。(28節)

 異教的な風習は、イスラエル以外の地では広く行われていたのでしょう。日本の宗教的儀礼と結び付けたくありませんが、日本でも霊山、霊木、神山、神木、森羅万象と気象現象に神が宿るとの考え方があります。素朴な状態では――つまり、神からの戒めを知らない民の間では――このような汎神論的感覚はむしろ当たり前だったのかもしれません。
 イスラエルは基本的には小さく弱い国です。それに対して異教の国の方が「羽振りがいい」のです。彼らがそこから出て来たエジプトは、当時豊かな大国でした。北のアッシリヤやバビロニヤもいわば「成功した帝国」のように見えました。
 交易やそれに伴う交流の中で、繁栄した国々の神々に近づき、祀ることがいつまでも続いたようです。

 そこで、わたしは彼らに言った。あなたがたが通う高き所は何なのか。今日でもその名をバマと呼ばれているが。(29節)
 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは父たちの行ないをまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯している。(30節)

 バマとは、「高き所」の意味だそうです。エゼキエルの時代には、異教の神を祀る場所を表す言葉が定着していたのでしょうか。
 もう国が崩壊寸前だったのだから、イスラエルは大いに反省するべきだったのに、エゼキエルの時代の人々も、彼らの父たちと同じことを行なっていると、主は仰せになっているのです。

 しかも、ささげ物を供え、幼子に火の中を通らせ、今日まであらゆる偶像で身を汚している。イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの願いを聞いてやれようか。わたしは生きている、――神である主の御告げ――わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。(31節)
 あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。(32節)

 イスラエルがまたしても、偶像礼拝に陥るのは異教の諸族――強くて繁栄した国――に見習いたい、あやかりたいと思う心です。
 繁栄や強さにあやかりたいというこの人間性、これが諸悪の根源かも知れないと思わせ得られます。「繁栄の神」(サタン)は、ほんとうの繁栄をもたらしたことはないと思うのですが。









posted by さとうまさこ at 10:51| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする