2017年02月08日

エゼキエル書67 後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。(エゼキエル書20章39節〜44節)



 さあ、イスラエルの家よ。神である主はこう仰せられる。おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい。後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。(エゼキエル書20章39節)

 生きておられる主は、羊を分けるように、杖を持って信徒を選り分けると仰せになったのです。これは、神のさばきを意味します。偶像を祀ってはばからないような者を、最終的に取り分けて滅ぼされるのは神です。
さばきを宣告された後で、「おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい」とは、主の厳しさが極まれりと思える箇所です。同時に、すべてを見通しておられる主でなければ言えない自信に裏打ちされたことばです。
主は、「そむいた民も結局、主の所に戻ってくる」のを知っておられるのです。

 わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上で、――神である主の御告げ――その所で、この地にいるイスラエルの全家はみな、わたしに仕えるからだ。その所で、わたしは彼らを喜んで受け入れ、その所で、あなたがたのすべての聖なる物とともに、あなたがたの奉納物と最上のささげ物を求める。(40節)

 悔い改めて戻ってきた民を、神様は「喜んで受け入れ」て下さるのです。奉納物や最上のささげ物を求めて下さるということばは、意味が深そうです。
 神は、怒っておられるとき、しばしば、「もうささげ物をもって来るな」と仰せなのです。

 愛のない相手からでも、「もらえる物は取っておこう」と考えかねないのは人間の賤しさです。神はもともと人との愛ある関係以外、何一つ必要とされていないのです。

★★★★★

 わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。(41節)
 わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。(42節)
 その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう。(43節)
 わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。――神である主の御告げ――」(44節)

 いつの日か、捕囚の民はエルサレムに戻って来ることができるのです。神がイスラエルの先祖に誓われた約束の地に帰って来ることができる。そうなれば、その時は、イスラエルの民の信仰は、いよいよ固くなっているはずなのです。主は、イスラエルの叛きの罪にもかかわらず、その御名のためにイスラエルを回復して下さるのです。
 それは主の真実な愛の現れです。それを経験する時、イスラエルの民は、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」を、いよいよ自分たちの主であると思い知ると宣言しておられるのです。







posted by さとうまさこ at 09:40| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする