2017年02月11日

エゼキエル書70 一振りの剣が研がれている(エゼキエル書21章8節〜12節)



 ついで、私に次のような主のことばがあった。(エゼキエル書21章8節)
  「人の子よ。預言して言え。
  主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。(9節)


 つぎに主は、エゼキエルに、方角ではなく出来事を見るようにと仰せです。ネゲブやエルサレムの方向に向かせたのは、「一振りの剣が研がれ、みがかれている」からです。
 剣は、聖書では、人がそれを用いるときは、まさに「人殺し」を意味する時です。「剣を取る者は剣で滅びる」と、神がその使用を否定されている殺人の道具です。
 聖書を概観していますと、神が厭われた人の罪、その歴史は、「剣」と「姦淫」に尽きるように思えます。その元は、貪欲です。「他者の物が欲しい」という欲望です。その究極は、神がお持ちの栄誉や権威でさえ、自分のものにしたいという自己中心ではないでしょうか。

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 「食べてはならない」と禁じられた木の実を食べたのは、「空腹のため」ではありませんでした。「目に麗しい」その実に手を伸ばさせたのは、「あなたはけっして死にません」というサタンの声でした。自分の欲する声を後押ししてくれる声にそそのかされたのは、結局、自分には選ぶ権利があると言った自己中心だったのではないでしょうか。
 貪欲のもとは、すべからく「自分の目に好もしく」思えたものをすべて欲する「欲望」を合理化するサタンの声です。姦淫も殺人も結局、そのような欲望から発しているのです。カインがアベルを殺したのも、神の目がアベルのささげ物に目を留められた(と思った)時、彼は名誉(神の愛)を自分のものにしたいという衝動に勝てなかったのです。

 剣は、人の欲望が生み出した殺人兵器です。しかし、ここでは、人と人の殺し合いが預言されているのではなさそうです。

  虐殺のために研がれ、
  いなずまのようにそれはみがかれた。
  われわれはそれを喜ぼうか。
  わたしの子の杖も、すべての木のように、
  退けられる。(10節)
  その剣はみがかれて手に握られ、
  それは、研がれて、みがかれ、
  殺す者の手に渡される。(11節)

 磨かれ、研がれた剣をもっているのは、「殺す者の手」です。「渡した」のは、神ご自身です。
 こんな預言を嘆かずに、聞けるものはいるでしょうか。

  叫べ。泣きわめけ。人の子よ。
  それはわたしの民の上に下り、
  イスラエルのすべての君主たちの上に
  下るからだ。剣への恐れがわたしの民に起こる
  それゆえ、あなたはももを打って嘆け。(12節)









posted by さとうまさこ at 09:53| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする