2017年02月12日

エゼキエル書71 ためされるとき、つえまで退けられたら、どうなることだろう。(エゼキエル書21章13節〜17節)



 ためされるとき、杖まで退けられたなら
いったいどうなることだろう。
――神である主の御告げ。(エゼキエル書21章13節)

 この箇所の「杖」は、11節の「わたしの子の杖」を指しています。わたしの子の杖とは何でしょうか。新約の民であるクリスチャンたちは、主が「わたしの子」と言われるとき、すぐにイエス・キリストを思い出します。私たちは、キリストの血潮で贖われるのを「当てにして」います。事実、そうのようにお約束をいただいています。エゼキエルの時代にはまだ、キリストによる救いは人々の意識にはなかったかもしれません。けれども、父なる神の御計画の中では、キリストは私たちと父なる神との間をとりなすために存在している「仲保者」でした。また、そのような思想がイスラエルの民の間にも時々垣間見えます。(例、ヨブ記)
 キリストが民を導き民をその杖で分けることはあっても、同じ人間がそのようなさばきをするなどあり得ないはずです。
 しかし、今、神が「殺す者」に、殺す許可を与えておられるのです。それも、異教の民・バビロンへの許可です。もはや、神ご自身は、いかなる「とりなし」も無用と思っておられるのかのようです。

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人の子よ。預言して手を打ち鳴らせ。
剣を二倍にし、三倍にして、人を刺し殺す剣とし、
大いに人を刺し殺す剣として、
彼らを取り囲め。(14節)

 主は、エゼキエルにひるまず預言をするように励まされます。預言の内容は次第に高鳴って激しくなっていきます。剣が二倍三倍とは、主のさばきの剣がしだいに大きく鋭く数を増すことを意味するレトリックです。イスラエルの民は、主の再三に及ぶ警告を無視して来ました。そのたびに、それゆえ、神の怒りもさばきも大きく重いものになっていったのです。

  彼らの心が震えおののくように、
彼らのすべての門に、
つまずきをふやせ。
ああ、わたしは剣の先をいなずまのようにして、
虐殺のためにみがきをかける。(15節) 
 あなたの顔の向くところ、
右に向け、左に向けて切りまくれ。(16節)
 わたしもまた、手を打ち鳴らし、
憤りを静めよう。主であるわたしが語るのだ。」(17節)

 エゼキエルの預言によって、民は震え上がるでしょうか。もちろん、いかに厚顔な人たちでも、はげしいさばきの前で「震えおののく」でしょう。
 エゼキエルは、その神の預言を余すところなく、右にも左にも、告げ知らせなければならないのです。








posted by さとうまさこ at 08:55| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする