2017年02月19日

エゼキエル書78 そこには預言者たちの陰謀がある。(エゼキエル書22章24節〜31節、出エジプト記20章3節〜6節)



 次のような主のことばが私にあった。
 「人の子よ。この町に言え。おまえは憤りの日にきよめられず、雨も降らない地である。(エゼキエル書22章24節)
 そこには預言者たちの陰謀がある。彼らは、獲物を引き裂きながらほえたける雄獅子のように人々を食い、富と宝を奪い取り、その町にやもめの数をふやした。(25節)

 旧約聖書の神は「恐ろしい神」などといわれます。人々の不信仰を厳しく糾弾し、かならず罰せられる方のように感じられるからでしょう。その拠って立つ理由は、神との契約(シナイ契約)に違反しているからです。神の戒めをないがしろにすることです。それ以上に、神がお怒りになるのは、「偶像礼拝」です。
 十戒を見ると、最初の4つの戒めは、神に対するもので、とりわけ最初の二つは、偶像礼拝を厳しく戒めるものです。

 あなたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト記20章3節)
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(4節)
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、(5節)
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(6節)

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 聖書を読んでくると、神は、契約の書面を交わして神聖政治国家イスラエルをお立てになり、それで良しとされたのではないことは、明らかです。
 この時、神は、神の国を実際に機能させるために制度も与えて下さったのです。それは、幕屋、聖所、祭司という具体的な神との「関係維持」の制度です。
 どんなに素晴らしい国家を造ってもらっても、その後、造って下さった方がそこから去ってしまわれては、なにもならないことを、神様はご存知だったのでしょう。それは、親が子供に学校に行かせ、授業料を払い、勉強部屋を立てて「あとは一人で頑張りなさい」と、何処かへ行ってしまうようなものです。

 イスラエルの民に契約をお与えになって神――ヤーウェと呼ばれる方は、もとより、人の弱さをよく御存じですから、イスラエルとの関係を維持し続けて彼らと固いきずなを結び、ご自分の国を地上に実現するおつもりだったに違いありません。
 ところが、この神の御心は、イスラエルの民がシナイから動き出していくらも経たないうちに、裏切られ続けるのです。
 荒野の40年が何故もたらされたのか。また、士師記の時代の混迷と悲惨から、イスラエル王国を建国するに至る流血の道を見るたびに、聖書読者は、神の御計画の理想はどこにあるのかと、懐疑的になるのではないでしょうか。
 ダビデ王国は、神の国の大きな金字塔のように見えました、しかし、それさえ、結果的に滅亡への道であるかのように、王朝は衰退していくのです。そして、ついに、国が滅亡し、民は捕囚に取られるのです。しかも、その原因を深刻に受け止められない民なのです。

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 自分たちの親ともいうべき神を棄てて偶像に走り、祭司が律法を犯し、安息日がないがしろにされ、首長たちが私利を貪っては、「神の国」は機能するはずがないのです。

 その祭司たちは、わたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚し、聖なるものと俗なるものとを区別せず、汚れたものときよいものとの違いを教えなかった。また、彼らはわたしの安息日をないがしろにした。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。(26節)
 その町の首長たちは、獲物を引き裂いている狼のように血を流し、人々を殺して自分の利得をむさぼっている。(27節)

 しかも、形式的には、神を敬っているかのように「嘘をつく」人びとが指導者です。偽預言者が次のように言うのです。

 その町の預言者たちは、むなしい幻を見、まやかしの占いをして、しっくいで上塗りをし、主が語られないのに『神である主がこう仰せられる。』と言っている。(28節)
 一般の人々も、しいたげを行ない、物をかすめ、乏しい者や貧しい者を苦しめ、不法にも在留異国人をしいたげた。(29節)
 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。(30節)

 弱い者や貧しい者や在留異国人が虐げられ、事実上ボロボロになった国の破れ口を修理する者もいません。

 それで、わたしは彼らの上に憤りを注ぎ、激しい怒りの火で彼らを絶滅し、彼らの頭上に彼らの行ないを返した。――神である主の御告げ――」(31節)

 カナカスになったと宣告され、もう一度炉に投げ込まれるのは、せめてもの、神様の愛だとしか言いようがなさそうです。







posted by さとうまさこ at 09:06| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする