2017年02月20日

エゼキエル書79 オホラとオホリバ(エゼキエル書23章1節〜18節)



 次のような主のことばが私にあった。(エゼキエル書23章1節)
 「人の子よ。同じ母の娘である、ふたりの女がいた。(2節)
 彼女たちはエジプトで淫行をし、若いときから淫行をし、その地で彼女たちの胸は抱きしめられ、その処女の乳房はもてあそばれた。(3節)
 その名は、姉はオホラ、妹はオホリバで、ふたりはわたしのものとなり、息子や娘たちを産んだ。その名のオホラはサマリヤのこと、オホリバはエルサレムのことである。(4節)
 オホラは、わたしのものであったのに、姦通し、その恋人、隣のアッシリヤ人を恋い慕った。(5節)
彼らは、青色の衣を着た総督や長官で、すべて麗しい若い男たちであり、馬に乗る騎兵であった。(6節)
 彼女は彼らと姦通した。彼らはみなアッシリヤのえり抜きの者であった。彼女は恋い慕った者のすべての偶像で自分の身を汚した。(7節)
 彼女はエジプト以来の淫行をやめようとしなかった。それは、彼女の若いとき、エジプト人が彼女と寝てその処女の乳房をもてあそび、彼女に情欲を注いだからである。(8節)
 それでわたしは、彼女が恋い慕う恋人たちの手、アッシリヤ人の手に彼女を渡した。(9節)
 彼らは彼女の裸をさらけ出し、その息子や娘たちを奪い取り、彼女を剣で殺してしまった。こうして、彼女にさばきが下され、彼女は女たちの語りぐさとなった。(10節)
 妹のオホリバはこれを見たが、姉よりいっそう恋情を腐らせ、その淫行は姉の淫行よりひどかった。(11節)
 彼女は隣のアッシリヤ人の総督や長官を恋い慕った。彼らはみな盛装をし、馬に乗る騎兵たちで、麗しい若い男であった。(12節)
 わたしは彼女が身を汚すのを見たが、ふたりとも同じやり方であった。(13節)
 彼女は淫行を増し加え、壁に彫られた人々、朱で描かれているカルデヤ人の肖像を見た。(14節)
 それらは腰に帯を締め、頭には垂れるほどのターバンをつけ、みな侍従のように見え、彼らの出生地カルデヤのバビロン人の姿をしていた。(15節)
 彼女はそれを一目見ると、彼らを恋い慕い、使者たちをカルデヤの彼らのもとに遣わした。(16節)
 バビロン人は、彼女のもとに来て、恋の床につき、彼女を情欲で汚した。彼女が彼らによって汚れたものとなったときに、彼女の心は彼らから離れ去った。(17節)

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 聖書読者がもっとも戸惑う設定の一つに、イスラエルとほかの国々がかなりあらわな性的関係として語られていることがあると思います。

 「聖書」というのは、Bible 、もともとの意味は「書物」だということです。けれども、漢字でこれを見ると、その書物はとりわけ「聖なるもの」について書かれていると予想するのです。ナイーブな読者は、あるいは、聖書をまったく知らない人たちは、聖書を「聖人列伝」または、聖なる事柄だけについて言及した箴言のようなあるいは論語のような言葉集と思って読み始めます。
 初めて、教会へ来た人たちは、たいてい、福音書から読むことを勧められますし、福音書はまさに「Good News(Gospel)」です。主役であるイエス・キリストは,人となってくださった「神」です。神の御子であられたのに、父なる神の御命令で「神の御位(みくらい)を捨てて」人となって、世に来てくださったのです。これは、深遠で美しい物語です。

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 イエスさまはとても率直な言葉で、私たちの罪をあばかれています。それは同時に、神の基準がいかに高いものかを示しておられることです。
 神は、旧約聖書において、人間として守らなければならない戒律を、十戒という形で下さっています。私たちは、自分たちを創造して下さった神を崇め敬い、礼拝するのは当然です。その神は、唯一の神、万物の創造者であることは聖書の最初に記されています。イスラエルはとくに、その神によって最初に「救い出された」選びの民であることも、十戒の始めに記録されています。
 同時に、人間として、父母を敬うこと。殺してはならないこと、盗んではいけないこと、姦淫してはいけないこと、偽りの証言をしてはならないこと、隣人のものを欲しがってはならないこと、などを戒められています。
 しかし、イエス様は、これらの戒めにどれも一歩突っ込んだ註解を付けておられて、つい、要領よく戒律を守ろうとする人々を、震え上がらせています。

 父と母を敬っていると言いながら、父と母の食べ物を減らす者がいると指摘されています。
 殺してはならない、盗んではならないと行った戒律は、いわば隣人に対するものでした。同じイスラエル人の間では「なんじの隣人を汝自身のように愛せよ』と命じられたのでした。けれども新しい戒めでは、互いに愛し合いなさいと命じられています。もう、同じ宗教だから、同じ血族だから、同じ民族だから愛し合うのではないのです。これは難しいのではないでしょうか。
 また、姦淫は、じっさいに不倫をして交わることだけではなく、「心にみだらな思いを抱いて女を見る者」も同罪だと仰せなのです。
 このような新約の基準は、永遠の命を約束された者、イエス・キリストを信じる者としての一歩進んだ戒律として示されたのですが、あまりにも、潔癖すぎる高すぎる基準です。これだけでも、世の人には、かなり高いハードルである!と嘆息している同じ人が、旧約聖書を読むと、そこらじゅうに、姦淫の事例が語られるのです。

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 聖書は、私たちと神との関係は、父と子、創造者と被造物だと語り、始めるのですが、シナイ契約では、それは、結婚契約になぞらえられているのです。
 それを理解することなしに、また、男性が圧倒的上位の立場と力を振るった時代の男女関係という背景を理解することなしには、神の力強い保護とその保護をないがしろにして他の男に走る女という図式をのみ込むことは難しいのです。

 エゼキエル書23章は、このような前提の上で読み進めればさほど難しい箇所ではないと思います。
  
 それでも、彼女は自分の淫行をさらけ出し、自分の裸をあらわした。それで、わたしの心は、かつて彼女の姉から離れ去ったように、彼女からも離れ去ってしまった。(18節)










posted by さとうまさこ at 11:02| Comment(0) | Coffee Break | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする